朝鮮親征の発令と軍規
- 崇徳元年十二月壬申、太宗は朝鮮征討を決定。冬至の南郊祭天に合わせて天・地・宗廟に開戦を告げた。
- 篤恭殿で貝勒岳託らに、各牛录から騎兵・歩兵・護軍を選抜し武具を整えさせるよう命じた。
- 己巳、出征に先立ち軍律を布告。朝鮮が盟約を破り逃亡者を匿い、明の孔有徳・耿仲明を受け入れ、清の使者を拒絶し文書を奪われたことなどを開戦理由に挙げた。
- 進軍中は寺廟を壊さず、降伏した城・砦の民を掠奪せず、老幼病者を道に棄てず、婦女を辱めないことなど、厳格な軍規を定めた。捕虜の脱走者は厚遇し、命令違反者・敗走せず功名のために生擒を口実に進撃を怠る者は処罰するとした。
大軍の朝鮮進発
- 十二月辛未朔、外藩モンゴル諸王貝勒が来会。太宗は鄭親王済爾哈朗に瀋陽留守を、武英郡王阿済格に牛荘駐屯を、饒余貝勒阿巴泰に噶海駐屯・辺境防備を命じた。
- 壬申、太宗自ら大軍を率いて出征。礼親王代善・睿親王多爾衮・豫親王多鐸・貝勒岳託・豪格・安平貝勒杜度らが随征。左右両翼に分かれ瀋陽を出発、堂子で祭天の礼を行い進発した。
- 科爾沁部の巴図魯郡王(満珠什哩)・扎薩克図郡王(布達斉)が出迎え、貂皮・馬を献上したが太宗は一部のみ受納した。
- 鎮江(義州対岸)に至り渡河、義州城南に駐屯。郭山城では守将が自刃し城内軍民が降伏、定州も同様に降った。太宗はいずれも寛大な諭示を与えた。
安州進軍と偵察・略地
- 侍衛昂古頼らが安州で捕虜28人・馬5匹を獲得。外藩モンゴル諸貝勒には沿海地方の略地と安州での会合を命じた。
- 正黄旗モンゴルの巴雅爾らが寧辺城の哨兵を撃破。安州守将には、清への抵抗を止めて開城降伏するよう諭す勅書を送った。
南漢山城の包囲開始
- 大軍は漢江を渡り南漢山城西に布陣。先に戸部承政瑪福塔・前鋒将領勞薩らが商人を装い王京(漢城)を急襲、豫親王多鐸・貝子碩託らも続いた。
- 平壤では巡撫が既に逃亡し軍馬のみ残された。瑪福塔らは朝鮮王京に至り迎撃の朝鮮軍を撃破、朝鮮国王李倧は南漢山城へ逃れた。清軍は追撃してこれを包囲。
- 城中は食料・水が乏しく、守兵も十分でなかったことが偵察により判明。太宗は五旗の援軍を送り包囲を強化した。
- 丁酉、太宗は結氷した臨津江を渡って進軍。奇しくも前日の雨で再結氷し、無事に渡河できたことを天意として喜んだ。
- 戊戌・己亥、多鐸らは朝鮮の援軍(1万8千余)を相次いで撃破。碩託・尼堪・色勒・阿爾津・勞薩・武拝らが各方面で朝鮮の来援部隊を撃破し、南漢山城は完全に孤立した。
- 太宗は諸大臣に朝鮮王京への突入と捜索を命じ、自ら漢江を渡って南漢城西に布陣。譚泰らが王京城に梯子で登城し、財物・家畜を接収した。多鐸・岳託・楊古利は戦利品の旗・武具・馬を献上、太宗は将士に分与した。帰順した瓦爾喀人葉辰麻福塔には巴図魯の号と部下153戸の奴僕・家畜・住居を賜った。