皇清開國方略太宗文皇帝 崇徳 二年 1637年

左翼軍の合流と紅衣砲の輸送

  • 正月庚戍、睿親王多爾衮・安平貝勒杜度らが相次いで南漢山城に到着。先に太宗は沙河堡東岡で多爾衮・豪格に満洲・モンゴル左翼三旗と外藩モンゴル左翼兵を分統させ、寛甸路から長山口に入らせていた。
  • 杜度・孔有徳・耿仲明・尚可喜・石廷柱・馬光遠らには紅衣砲・軍械輜重の護送を命じ、道中の朝鮮民には皮島・雲従島方面の明国近隣居民のみ略取し、大路沿いの民は略さないよう厳命した。
  • 丙申、大軍は分隊して南漢山城を包囲。太宗は杜度らに紅衣大将軍砲を早急に運ぶよう督促し、黄州嶺の伏兵掃討や馬匹の適正な運用を細かく指示した。

楊古利の戦死

  • 太宗は南漢山城の形勢を視察。全羅道の朝鮮援軍を岳託が撃退。大軍は漢江を北に渡り王京近郊に布陣。
  • 丁未、朝鮮の全羅・忠清両道の援軍来襲に対し、豫親王多鐸・額駙楊古利が迎撃。吹雪で敵陣が見えぬまま進撃し敵を山頂まで追い詰めたが、伏兵の朝鮮敗残兵の銃撃により楊古利が重傷を負い、翌日死去した。太宗自ら哭奠し御用の冠服を賜って弔った。
  • 睿親王多爾衮・豪格らの左翼軍は長山口から昌城を攻略。寧辺・安州方面でも朝鮮の援軍を次々撃破し、黄州の元帥率いる1万5千の援軍も奇襲により撃破した。

朝鮮国王の降伏交渉

  • 已未、朝鮮国王李倧が使者を送り講和を請うた。先に太宗は英固爾岱・瑪福塔を遣わし、朝鮮君臣の講和を装った裏切りの罪を責める勅書を送っていた。朝鮮側は謝罪の書を送るも太宗は返答せず、10日後に李倧が再び窮状を訴える上書を送った。
  • 太宗は勅で厳しく責め、出城帰順か決戦かを迫った。己未、李倧の重臣洪某らが正式に降伏を請う書を奉じた。
  • 庚申、太宗は再び勅を送り、包囲を解かず攻め落とすことも可能だが、李倧が自ら出城して誠意を示せば国を安堵させると説き、首謀の臣3、4名を縛送するよう求めた。

江華島の攻略

  • 癸亥、睿親王多爾衮が江華島を攻略。先に太宗は諸留守大臣に、朝鮮王妃・王子らが江華島に避難していることを踏まえ、造船して同島を攻めるよう命じていた。
  • 遼陽方面で朝鮮式・清式の船を建造させ、多爾衮率いる軍が小船で渡海、朝鮮水軍を紅衣砲で撃破し上陸、江華島城を陥落させた。朝鮮王妃・王子二人・閣臣・侍郎ら多数を捕獲したが、多爾衮は一切略奪させず丁重に保護した。

三田渡での降伏儀式

  • 庚午、朝鮮国王李倧が軍前に至り降伏を請うた。太宗は李倧の従前の不服従を責めつつ、出城帰順すれば処罰を明国旧例に倣わず寛大に扱うこと、明の年号を廃して清の正朔を奉じること、王子を人質に出すことなどを条件とする勅諭を送った。
  • 李倧は江華島陥落・妻子捕獲の報を受け、ついに漢服・明の敕印を献上し南漢城から出て降伏。漢江東岸の三田渡に壇を築き、太宗が黄幄に出御して受降の礼を行った。李倧以下文武群臣は三跪九叩の礼を行い、太宗は朝鮮国王としての地位存続を認めた。
  • 太宗は「威で服させるより徳で懐かせる方がよい」とし、李倧を近くに座らせ、江華島で捕えた王妃・子婦・群臣妻子をすべて返還。黒貂の袍褂・鞍馬などを賜った。長子李&KR1261;・次子李淏を人質として留めた。

朝鮮からの撤兵

  • 二月壬申、朝鮮から班師。江華島で得た人口・家畜・財帛を諸将に分与した後、李倧が群臣を率いて王京十里外で跪いて見送った。
  • 太宗は毎年の貢納の礼と方物の数量について諭し、李倧の貧窮を考慮して丁丑・戊寅の二年は貢物を免除し、己夘年秋から通常通りとすることを許した。

瀋陽への帰還と後続部隊の統制

  • 辛卯、瀋陽へ帰還。班師にあたり、睿親王多爾衮・安平貝勒杜度に捕虜を伴う後続部隊を任せ、蒙古王貝勒には行軍中の規律厳守・国王二子(人質)の厳重な監視・沿道民との接触禁止などを命じた。
  • 留守の鄭親王済爾哈朗・武英郡王阿済格・饒余貝勒阿巴泰らに捷報を伝え、朝鮮出征の完全勝利を祝う使者が瀋陽に送られた。
  • 帰路、朝鮮国内の各城の総兵・副将らが跪いて見送り、食糧を献上。太宗はこれを嘉納し兵に分配した。義州では農繁期を考慮し民の帰農を促す諭示を出した。
  • 戊子、国境に戻り太子河を渡ると、済爾哈朗が官員を派遣して出迎え、庚寅に瀋陽近郊で盛大な祝賀の儀を行い、堂子に謁して還宮した。

辺境の農政と朝貢

  • 癸丑、噶海駐防の交代と農繁期の耕作督励を諭示。戸部に対しては前年の遅霜による穀物高騰を教訓に、適期の播種と管理を厳命した。
  • 是月、黒龍江地方の額蘇里屯から使者が訪れ、これまで通交のなかった39屯が朝貢を望んでいる旨を奏上した。