皇清開國方略太宗文皇帝 天聰十年 1636年(二月〜四月)

二月 漢軍の閲兵

  • 辛丑、太宗は石廷柱の管轄する漢軍を演武場で閲兵した。騎兵・歩兵をそれぞれ隊伍に分け、砲声を合図に隊列を組ませてその軍容を検分し、茶を賜り将士に銀両を与えた。

三月 内三院の制定と噶海城の築造

  • 辛亥、文館を内三院に改めた。先の九年十二月、太宗は記注の儒臣に外国との文書や蒙古諸貝勒との贈答応酬を漏れなく詳細に記録するよう命じていた。内国史院は上の起居注や用兵行政・外国章奏を編纂し歴代実録を修めることを、内秘書院は外国宛の書や勅諭祭文・諸貝勒冊文を撰することを、内宏文院は古今の政事得失を注釈して御前で進講し皇子・親王へ制度を伝えることを、それぞれ職掌とした。
  • 乙卯、貝勒阿濟格・阿巴泰と八大臣に噶海の築城を命じ、大臣拜音図らに閲視させた。内院の諸臣が明の制度に倣い城門に揚威・昭徳・永定・興化・定逺などの名を付けようとしたが、太宗は「事は名を思うべきであり、興す・揚げる・定めるといった誇るような名は天にあるもので人にはない」として、鞏固門・靖逺門・鎮西門と改めさせた。

是月 瓦爾喀征討四路の凱旋

  • 先の九年六月以降、武巴海・多済里・扎福尼・武什塔をそれぞれ両黄旗・両紅旗・両藍旗・両白旗の帥とし、四路に分けて瓦爾喀の各地を攻略させていた。各路の兵力・進路・目標壮丁数が細かく定められ、太宗は馬を休養させつつ進み、島嶼は船を造って攻めること、旧逃人には投降を招くことなどを訓示した。
  • 庚申、武什塔らが凱旋し、八旗合わせて壮丁一千百六十名・婦女一百四十口・馬三百三十七・牛百八十のほか多数の毛皮・人参を俘獲したと奏上した。太宗は礼部官に迎宴を命じ、武巴海・鄂屯らの世職を進め、将士に人口・馬匹・毛皮・布疋を賜った。

夏四月 辺境守将の考課

  • 庚辰、太宗は年季の満ちた辺境守将を盛京に召し、逃亡者の捕獲数や城垣器械の修築状況によって功罪を評定した。海州河口・蘭磐・蓋州の守将は多数の逃人・船を捕獲して称職とされ馬を賜り、鹹場・岫巖・海州・牛荘・東京の守将は職務相応として賞罰なし、耀州・興京・通逺堡・鞍山の守将は器械の不備により各々二日の圏禁に処された。海州河口の伊勒慎は特に世職一等に抜擢された。