皇清開國方略太宗文皇帝 天聰九年 1635年(十月〜十二月)

冬十月 明の辺境守将への招降書

  • 己卯、太宗は先に都司陳錦や諸生張文衡が「朝鮮も服し遠方からの帰順が相次ぎ国威が日々高まっている、天意人心に応じて中原へ進むべき」と上奏していたことを踏まえた。先立って二月戊子、太宗は刑部承政髙鴻中・文館の覚羅龍什らに対し、降衆の撫綏や城郭の修治が整わぬうちに軽々しく興師を論ずる漢官・諸生を戒め、慎重な議を奏上させていた。翌日の沈佩瑞による広寧・閭陽での屯田や造船運粮の献策は太宗に是とされた。
  • 八月、貝勒多爾衮らが察哈爾遠征から凱旋する途上、沙河堡を通過した際、太宗は同堡が財物を隠さず献じた功により二度も攻撃を免れたことを伝えさせ、参将は感激して五爪龍緞を献じ互市を行った。
  • 太宗は納海・鄂謨克圖らに命じ、喜峯口・潘家口・董家口など明の辺境各所へ書を届けさせた。書は、辺外の葉赫が無端に事を起こし明がこれに加担して仇怨が深まった経緯や、これまで数度の和議提案に明が応じなかった責任は明側にあると述べ、今後は抗拒する者は殺し、逃げ隠れる者は俘とするが、安居して款附する者の家産は秋毫も犯さぬと告げるものであった。この書の送達に際し、清軍は明の沿辺哨卒を撃破し百余人を斬り一人を生擒、馬三匹を得た。

十一月 土黙特帰順者への世職授与と従猟の規制

  • 丁未朔、殺虎口に居住していた土黙特出身で察哈爾に属していた特穆禄・幹岱が大軍の到着とともに来帰したため、それぞれ三等甲喇章京・牛录章京の世職を授け、いずれも世襲二次を加えた。
  • 癸亥、太宗は代善・阿巴泰・多鐸・阿濟格と長嶺へ狩猟に出た。従卒が屯民の柴草を勝手に奪ったため各々鞭打ちに処し、以後の従猟の規則(野猪・熊は射止めず囲いの中へ追い込むこと、虎に遭えば奏聞のうえ追跡し、他人が射た獲物を横取りしないことなど)を定めた。この時の猟では虎四頭・鹿多数・野猪など合計百二十余を獲た。
  • 是月、先の征明寧遠戦で陣亡した蘇逹喇ら諸将士に恤銀を賜った。

十二月 太祖山陵への告祭と尊号勧進

  • 丁酉、太宗は諸貝勒大臣とともに太祖の山陵に詣で、察哈爾全土の帰服と伝国符璽の獲得という慶事を告げる祭祀を行った。
  • 甲辰、内外の諸貝勒が連名で尊号を奉るよう勧進したが、太宗はこれを固辞した。先の九年九月、都元帥孔有徳・総兵官耿仲明は、歴代の玉璽が漢代より伝わり今清に帰したことこそ天が九五の尊を与えた証だと上奏していた。十月戊寅朔には漢軍大臣石廷柱が漢官を率いて表を奉り祝賀し、太宗は「瑞祥は知っているが才徳に自信がなく天寵に応えられるか懸念する」と答えた。諸貝勒大臣はさらに希福・剛林・羅碩・祁充格らを通じて再三奏請したが、太宗は「大業がまだ定まらぬうちに大号を建てるのは天の恵みに応える所以ではない」として固辞し、この夜遅くまで満漢蒙古の大臣が集まり重ねて陳情したが、なお允さなかった。