春正月 科爾沁部長奥巴の背信と謝罪
- かつて科爾沁部長奥巴は太祖に朝見し、王号と郡主を賜っていた。天聰二年九月、太宗が察哈爾親征に際して奥巴に出兵を求めたが、奥巴は会合の期限に遅れ、討たずに撤兵した。
- 太宗は索尼・阿珠祜を使者として派遣し、奥巴の背信を列挙した書を送った。内容は、奥巴の父が葉赫に加勢して侵攻した件、烏拉・葉赫への加勢、和議後の背信、太祖崩御時の弔問の遅延、明国との私的交易、今回の会合違約など多岐にわたり、今後の信用を問い質すものであった。
- 太宗は使者に、あえて礼を尽くさず厳しい態度で接し、奥巴の本心を探るよう命じた。実際の使者往還では、奥巴が当初応対を渋ったものの、書を見て大いに驚き、自ら謝罪に赴くことを申し出た経緯が詳しく記録されている。
- 奥巴が実際に来朝すると、太宗は十里まで出迎えて宴を催し、後日改めて過去の背信を問い質させたところ、奥巴は明国との私的交易と察哈爾討伐時の違約を認め、駝・馬の罰を申し出た。三日後に馬・甲を献じて謝罪し、太宗はこれを許して衣服・武具・馬などを厚く賜り、自ら郊外まで見送った。
丁丑 直月理政貝勒の増員
- 天命六年以来、太宗以下四大貝勒が月番で国政を分担していたが、太宗はこれを弟・甥の世代の貝勒たちに代行させ、失策があれば当番の貝勒の責とする旨を命じた。大貝勒代善らも賛同し、以後は諸貝勒が月番の政務を代行することとなった。
二月戊子 民財科斂の厳禁
- 正黄旗の千総らが屯への供給不足を理由に民間から食糧を取り立てていたことが発覚した。太宗は出兵者に自弁の食糧携行を義務づけていたにもかかわらず違法な徴発が行われたことを厳しく咎め、諸旗に同様の事例がないか調査を命じた。調査の結果、正黄旗以外にも同様の事例が判明したが、自ら申告した分は寛大に扱い、以後の改善を求めた。
庚子 降将の処罰と辺境巡視
- 総兵官武訥格・副将蘇納が察哈爾の降した二千戸の民を、軍中の流言(降民が明へ内通を企てているとの噂)のみで男子を皆殺しにし妻子を捕虜とした事件が起き、太宗はこれを妄りな殺戮として咎め、獲得した家畜をすべて没収した。
- 同月、太宗は南路の辺境城壁を巡視し、穆家堡・牛荘・耀州・海州などで城壁の修築・新城の築造を命じた。
三月戊午 外藩諸部への軍令
- 科爾沁・敖漢・柰曼・喀爾喀・喀喇沁の諸䝉古部に清朝の制度に従うよう勅を頒布していたが、この月改めて大臣阿什達爾漢を派遣し、出師の期日厳守・違反時の罰則(察哈爾討伐・明国討伐それぞれの遅参・不参・擅行擄掠の罰馬駝数)を定めた勅を伝えた。
夏四月丙戌朔 文館の設置
- 太祖の定めた満洲文字を基に、太宗は歴代帝王の得失を鑑とし国家の政事を記録するため、達海・庫爾禪・剛林ら十名の儒臣を二班に分けて典籍の翻訳と政事の記注にあたらせる文館を設けた。
- 同月、扎嚕特部の内齊汗、科爾沁部貝勒布達齊がそれぞれ子を率いて来朝した。
五月丁未 越界駐牧の処分と海島掃討
- 柰曼部の衮楚克巴圖魯、扎嚕特部の内齊汗、瑚弼爾圖・色本・瑪尼、巴雅爾圖らが私的に境界を越えて駐牧した罪を自ら申告し、罰馬・罰駝を願い出たが、太宗は寛大に罰馬一頭のみとした。
- 戊申、明の総兵毛文龍が南海皮島に拠って遼民を招き寄せ、私腹を肥やしていた件について経緯を記す。毛文龍は当初清との通好を図って使者を交わしたが、後に清の使者科廓らを捕らえて燕京へ送った。寧遠巡撫袁崇煥は毛文龍が清と内通したとして処刑した。その残党が朝鮮の鉄山に拠っていたため、太宗は総兵官楞額哩に討伐させ多数を斬獲した。
- この月さらに諸将を分遣して毛文龍旧属の海島を掃討させ、黄骨島・石城島・旅順口・新城・鹿島・雅爾古など各地で採参の明人・朝鮮人を含め多数を斬獲・捕虜とした。
六月丁卯 土黙特部の入貢
- 土黙特部長鄂木布が四十五人を遣わして駝・馬・綵緞を貢し、部衆を率いての帰附を申し出た。同部の台吉卓爾畢泰・阿渾阿巴当・索諾木らも来朝し貢物を献じた。
秋七月乙未 庫爾喀部・喀爾喀部の来朝
- 庫爾喀部の頭目九人が海豹皮を貢して来朝した。同月、喀爾喀貝勒巴哈達爾漢の子拜渾岱・拉巴泰・満珠什哩ら三台吉が三十五人を率い、かつて察哈爾に侵掠されて科爾沁に逃れていたが、このたび科爾沁より帰順したと奏上した。
八月庚午 行軍賞罰の制定
- 入八分貝勒らの臨陣時の賞罰規定を定めた。七旗が敗走する中で一旗のみが迎撃して七旗を保全した場合はその功に応じ敗走した七旗の人員を与える、逆に一旗のみ敗走した場合はその爵を削り人員を七旗に分与する、また戦功の大小・獲得の多寡に応じて賞罰を行う、追撃戦で軽率に突撃した者はその馬・獲得人口を没収するなど、細かな基準を定めた。
九月壬午朔 儒生の校試
- 太宗は文武並用の理念のもと、諸貝勒・満漢䝉古諸家に属する儒生を対象に試験を行うことを詔した。応試者三百余人のうち二百人が及第し、内府や諸家の奴僕であった者は身分を解放されて労役を二丁分免除、上位者には緞・布が賜られた。
- 同月、南界の守将伊爾登らが毛文龍旧属の獐子島を攻め、船を奪い多数を殺傷・捕縛した。また揚古利・楞額哩・阿山・雅賴らが雅爾古で採参の明人を掃討し、千総三名らを捕らえて帰還した。
冬十月辛未 喀喇沁での会師と明国討伐の決定
- 六月の時点で、太宗は諸貝勒大臣に対し、明との和議を望みつつも応じられない現状を述べ、䝉古諸部と合同して西征する構想と、そのための船舶準備の必要性を諭していた。
- 九月、貝勒濟爾哈朗・徳格類・岳託・阿濟格が明の錦州・寧遠へ出兵し、一月にわたり牧馬しつつ多数を捕虜とし、蓄積を焼き払って帰還していた。
- 太宗自ら外藩䝉古の諸部を召集し、十月に親征を開始した。喀喇沁の台吉布爾哈圖を嚮導とし、陽什穆河で会師した諸部の馬が痩せていたため罰を議したが、班師後に改めて議することとした。
- 納哩特河に至り察哈爾の五千人が降った。遼河に駐営した際、武訥格・蘇納に命じて明国へ逃れようとした察哈爾の残党を追わせ、多数を捕獲した。科爾沁部の奥巴・洪果爾・図美・武克善・巴達禮らが会師し、太宗は自ら出迎えて宴を催した。
- 諸貝勒大臣・外藩䝉古貝勒台吉に対し、明国と察哈爾のいずれを先に討つべきか諮問したところ、遠征の労苦を理由に退兵を主張する者と、明討伐を主張する者に分かれたが、太宗は明討伐を決した。
- 進軍五日目、大貝勒代善・三貝勒莽古爾泰が班師を進言し、太宗は一時これに従おうとしたが不快の色を見せた。岳託・濟爾哈朗らが真意を問うと、太宗は深入りの危険を懸念する二兄の反対を、事前に言わなかったことへの不満を語った。諸貝勒に説得され、太宗は進撃を決意し、管旗大臣を通じて大貝勒・三貝勒とも協議のうえ夜半に方針を確定した。
- 明国討伐にあたり、降伏者への略奪・婦女への暴行・家屋祠宇の破壊・果樹の伐採などを固く禁じる軍令を頒布し、違反者には斬・鞭打ちなど厳罰を科すこととした。
戊寅 洪山口・大安口・龍井関の攻略
- 大軍は喀喇沁の青城より四日進んで老河に至り、太宗は濟爾哈朗・岳託に右翼の兵で大安口を、阿巴泰・阿濟格に龍井関を攻めさせ、自らは洪山口へ向かった。
- 龍井関では明副将易愛・参将王遵臣を撃破して全滅させ、漢児荘城主の李豊が薙髪して降った。潘家口守備金有光も使者を送って降伏した。
- 太宗自ら洪山口を攻略し、降った千総・把総を登用した。同日、濟爾哈朗・岳託は大安口を攻略し、遵化から来援した明の馬蘭営など五営の敵兵を全て撃破し、石門寨も降伏した。
十一月甲申 遵化城の攻略
- 太宗は遵化城の巡撫王元雅に書を送り、清が明に対して抱く七つの大恨を述べ、降伏を勧告した。
- 明総兵趙率教が援軍四千を率いて来たが、阿済格らに撃破され趙率教は戦死した。莽古爾泰は明の中軍臧調元を生け捕りにし、太宗は「後に役立てるため」として収養を命じた。羅文峪守備李思禮も降伏した。
- 太宗は城の四方を八旗に分担させて攻城を命じ、正白旗の薩木哈圖が真っ先に城壁を登り、城は陥落した。巡撫王元雅は自経して死に、拒抗した官兵は誅殺されたが、太宗は元雅の遺体を棺に納めさせ、掠奪・妄りな殺害を厳しく禁じる勅を発した。
- 己丑、論功行賞が行われ、喀克篤哩・巴篤禮・和勒多・綏和多・薩木哈圖ら攻城に功のあった者が昇進し、扈什布・多禮善・茂巴禮らにも褒賞が与えられた。烏嚕特䝉古の阿海は先陣して戦死し、その父阿邦が備禦に任じられた。
- 太宗は諸将に対し、士卒を子弟のごとく愛し、規律を保つよう訓戒した。喜峯口参将の降伏使者にも同様に勅諭を与えた。
癸巳 燕京への進軍
- 太宗は薊州・三河県・通州方面へ進軍し、三河県では捕らえた漢人に招降の書を持たせた。順義県では大同・宣府の明軍を阿巴泰・岳託が撃破し、順義知県が降った。
- 通州に至り、諸城に対して七大恨の経緯と、明への和議要請がことごとく拒まれてきた経緯を改めて述べる檄文を発した。
- 牧馬厰を進軍時に包囲し、太監二名と三百余人が降った。燕京城北の土城関に布陣し、徳勝門外で明総兵満桂・侯世禄らの軍、および寧遠巡撫袁崇煥・錦州総兵祖大寿の援軍と交戦し、これを撃破した。
- 太宗は捕らえていた明の太監二人を利用し、副将高鴻中・参将鮑承先に反間の計を行わせ、袁崇煥が清と密約しているとの偽情報を流させた。これを聞いた太監が逃げ帰って崇禎帝に奏上し、袁崇煥は投獄され、祖大寿は驚いて錦州へ奔り山海関を破って出た。
十二月辛亥朔 良郷・固安・通州周辺の攻略
- 大軍は良郷へ向かい、諸貝勒が殿後の任を忘れて狩猟に興じたため太宗が咎めたが、罰は罰馬一頭にとどめた。良郷城を陥落させ、纛を祭って将士に銀・緞衣を頒賜した。
- 総兵官武訥格が固安県を攻略し全滅させた。房山県の生員三人が降ったが、太宗は金朝の皇帝を奉祀する房山の民に対し、静観するよう諭した。
- 阿巴泰・薩哈璘を遣わして良郷にある金の太祖・世宗の陵に牲帛を供えて祭らせ、祭文では両帝の徳を讃えつつ、明の万暦帝が理由なく清に害をなした経緯、七大恨の由来、天命による領土授与の正当性を改めて述べた。
丁卯 永定門南の戦いと燕京周辺の攻防
- 良郷から蘆溝橋へ戻る途上、明副将沈某の六千の兵を右翼五旗の兵が撃破した。京城西南隅に駐営後、環城の敵情を探らせ、永定門南に満桂・黒雲龍・麻登雲・孫祖壽の四総兵が歩騎四万で柵を結んでいることを知り、夜明けに十旗の兵で攻めてこれを大破し、満桂・孫祖壽らを斬り、黒雲龍・麻登雲を生け捕りにした。
- 太宗は将士の犠牲を深く憂慮し、戦後に獲得した馬などの分配を巡って諸臣に謙譲の意を示した。
- その後、京城西北・徳勝門外へ移動し、明兵との小競り合いに勝利を重ねた。達海・愛巴禮を使者として和議の書を徳勝門・安定門に置かせる一方、阿巴泰・濟爾哈朗・阿濟格・杜度・薩哈璘・揚古利らに通州を攻略させ、船を焼き払い張家湾も陥落させた。
- 岳託・薩哈璘・豪格が香河県を攻略し、沙河駅の䝉古五百人を追撃して全滅させ、通州河の船約千隻を焼いた。太宗自ら大貝勒代善らと薊州の情勢を視察中、山海関からの援軍五千と遭遇しこれを全滅させた。この戦いで貝勒杜度が負傷し、遊撃額爾濟格・烏爾坤が戦死した。両紅旗が進撃を怠ったため、総兵官揚古利が正黄旗を率いて敵を大破し、両紅旗の贖罪の品はすべて揚古利に与えられ将士に分与された。
- 参将英固爾岱の報告により、密雲総督・薊州道の軍が遵化を夜襲したが撃退したこと、翌日の戦闘でも多数を討ち取ったことが伝えられた。太宗は杜度を遵化に、喀喇沁台吉布爾哈圖を羅文峪に駐屯させ、大軍は永平へ進発した。