皇清開國方略太宗文皇帝 天聰 二年 1628年

明との文書往復

  • 春正月甲子、陣で捕らえた明人を釈放し寧遠へ返した。先に明の寧遠総兵祖大寿配下の銀住が我が軍に捕らえられており、このとき釈放して祖大寿への書に添えた。書では「互いに大言を弄しても果てしがない。構兵すれば共に戦禍を受け、息兵すれば共に太平を享受できるのは自明の理である。両国の好を通じ太平を図りたく先帝への祭使と新君即位の祝使を遣わそうとしたが、来書に弔喪や講和の相手が誰かを問う一節があったため遣使を止めた。銀住に来使への言伝を託す、礼をもって往来したいというなら我も使者を送ろう」と述べた。この月、東方格依克哩部の四頭目が四十人を率いて来朝し、宴を催して衣一襲ずつを賜った。

多羅特部の征討

  • 二月庚子、多羅特部を征した。多羅特部は察哈爾配下で、喀喇沁へ遣わした我が使者が二度にわたり同部に襲われ殺されていた。太宗は自ら軍を率い、精鋭を選んで奇を出して勝つべしと諭し、五日行軍したのち諸貝勒に「先行して敵に遭えば計略で捕らえ情報を得よ、朕は諸軍を率いて続く」と命じた。諸貝勒は先行して敵を生擒し、多羅特部の青巴図魯塞稜とその部衆が敖穆倫の地にいると知り、太宗の到着を待って敖穆倫を攻め、多爾済哈坦巴図魯は負傷して逃れたが妻子はことごとく捕らえ、台吉固嚕を殺し、俘虜一万一千二百人を得て、蒙古・漢人千四百名を民戸に編入し残りは奴とした。さらに精騎を選んで察哈爾部衆を追撃し馬百三十・牛七十を得、逃亡者を追って二百戸を俘獲した。従征将士・負傷者に俘獲人口を分与し、牛八頭を供えて纛を祭り天に告げて班師、瀋陽に近づくと諸貝勒大臣を宴し、「天佑によって初めて幼い二人の弟を遠征に従わせ勤労を著し凱旋を得た、美号を賜り褒めるべし」と述べ、貝勒多爾袞に墨爾根岱青、貝勒多鐸に額爾克楚琥爾の号を賜った。

朝鮮からの糧穀運送

  • 甲午、朝鮮が使者を遣わし米穀を運んだ。先に元年秋に義州の兵を撤収しその地を朝鮮へ返した際、市糴による米穀調達を諭していたが、朝鮮国王李倧は使者を遣わして謝恩する一方、戦禍の残る国内に市糴に応じる米穀がないと述べた。太宗は書を送り、我が国の糧米は本来国内で足りているが蒙古諸貝勒の帰順が相次ぎ扶養のため米粟が不足していること、朝鮮が毛文龍への糧餉を七年も負担していたのに対し我は無理な要求をしないこと、今年一年だけの市糴を求めるものであり、これに応じることが友好の証となること、平安・黄海二道は残破しても六道は無事であり鴨緑江・海路いずれの運送も可であることを述べた。あわせて、盟誓の際に約した逃亡者の送還が実行されていないこと、義州撤兵後も逃亡者が多数確認されていること、間諜と思しき定州外郎金惟同が潜入し十日余り滞在して戻った一件などを挙げ、禁絶を怠れば乱の端緒になると警告した(元年十二月の出来事)。これに対し李倧は使者を遣わして金惟同は自国が遣わした者ではないと弁明し、春の方物と米二千石を貢ぎ、さらに一千石を江中で市価により市糴すると申し出、逃亡者の件についても現地で調査した結果を報告した。

民の婚姻への資金助成

  • 三月戊子、国庫金を発して民の婚姻を助けた。詔して、国家の疆域が日々開けるにつれ人口の増殖こそ重要であるとし、貧しく妻を娶れない者に資金を与えて婚姻させるとし、国庫金を発して分与した。

牛荘築城の労役への犒労

  • 夏四月戊戌、牛荘築城の夫役を労った。先に明兵がしばしば遼河から侵犯していたため牛荘城を修築しており、太宗は夫役の労苦を思い牛四十頭で犒った。

巴林部の来帰

  • 丙辰、来帰した巴林部長を宴した。先に喀爾喀巴林部は察哈爾林丹汗に破られ科爾沁を頼ったが、そこでも侵掠を受けていた。このとき貝勒色特爾・台吉塞稜・満珠什哩・阿玉什らが巴林部衆を率いて来帰し、太宗は諸貝勒とともに城外五里まで出て宴を催した。

錦州征討軍の凱旋

  • 五月乙酉、明の錦州を征した軍の凱旋を労った。先に明軍が錦州を放棄し寧遠に退いたとの報を受け、貝勒阿巴泰・岳託・碩託が八旗大臣とともに兵三千を率いて征討を命じられ、太宗は自ら堂子に詣でて十里外まで出征の諸貝勒を送り、方略を授けた。あわせて明国諸臣への書で、大厦が傾こうとしているのに文武の臣が城郭の修築にばかり執着することを批判し、察哈爾汗が耕作を放棄し明の食糧を狙って境を侵す構えを見せている中、我も蒙古諸部の兵とともに城を築いて逼居し秋の収穫を奪う構えであると告げ、出戦するか篭城するかを問い、和好を望むなら速やかに使者を送るよう促した。
  • 十二日後、諸貝勒は捷報を送り、錦州・松山で人口・馬牛驘合わせて八百を得、錦州・杏山・高橋の三城を毀し、十三站以東の墩台二十一箇所を破壊、守台者三十人を殺して帰還したと報告した。太宗は迎えの官を出し諸貝勒に馬各一を賜り、自ら城外五里の行幄で凱旋の諸貝勒大臣を迎え、順に跪いて抱見の礼を行い、俘獲品を将士に分与した。この月、長白山東方沿海の呼爾哈部頭目礼仏塔・布克善・喀秀克・依克拉が来朝し、鞍馬・緞衣・弓矢橐鞬を賜った。

阿拉克綽特征討軍の凱旋

  • 六月甲午、阿拉克綽特を征した軍の凱旋を労った。先に貝勒阿巴泰・岳託が明の錦州征討の途中、察哈爾の固特塔布囊が部衆を率いて阿拉克綽特部の旧地に移り、我に帰順する者を截殺していると知り偵察して事実を確認、太宗に急報した。太宗は貝勒済爾哈朗・豪格に兵六百を授けて征させ、自ら城を出て士卒を閲兵し送り出した(五月辛未の出来事)。済爾哈朗らは固特塔布囊を捕らえて誅し、その部衆をことごとく収め、俘虜・駝馬牛羊を万単位で得て凱旋した。太宗は諸貝勒とともに出迎え、貝勒らとともに天を拝し、朝見・祭纛の後に功を論じて俘獲品を将士に分け与えた。

喀喇沁部の盟約と察哈爾親征

  • 秋七月戊寅、喀喇沁部長が盟を乞うた。蒙古喀喇沁部の塔布囊蘇布地は弟の万丹偉徴らとともに書を送り、察哈爾汗が骨肉を傷つけ喀喇沁部の戸口・牧産を奪ったこと、喀喇沁汗・布延台吉・博碩克図汗・鄂爾多斯済農・雍謝布・阿蘇特・阿巴噶・喀爾喀諸部が合兵して土黙特部の格根汗趙城で察哈爾駐兵四万を破ったこと、その帰途に明の張家口へ賞を求めに来た察哈爾兵三千を悉く殺したこと、左翼阿巴噶・喀爾喀部落からも合力興師の申し出があり天聰皇帝と共に挙兵する話も出ていることを伝え、察哈爾汗の勢力が揺らぐこの機を捉えて共に討つべきだと進言した。太宗は書を返し、和好して合兵討伐する意向があるなら各々使者を遣わして議すべしと告げた(二月の出来事)。七月、喀喇沁部は喇嘛四人とともに五百三十人を率いて盟を乞いに来た。太宗は貝勒阿済格・碩託・薩哈璘に出迎えの宴を命じ、到着後さらに宴を催して盟誓を結び、これより喀喇沁の拉斯喀布汗・烏勒赫貝勒らも部を挙げて来附した。
  • 先に元年秋に来帰した柰曼部長衮楚克巴図魯の甥鄂齊爾は、辺境を巡って察哈爾兵百人を截殺し馬牛二百余を得て献上、太宗はこれを嘉して甲一副を賞し和碩齊の号を賜った。この年の冬、太宗は衮楚克巴図魯・敖漢部長索諾木杜稜・塞臣卓哩克図を招き、自ら城外まで出迎えて御殿で盛大な宴を催し、金珠・皮帛・甲冑・鞍轡を厚く賜り、塞臣卓哩克図に都喇爾巴図魯、索諾木杜稜に済農の号を与えた。天聰二年五月、大軍が阿拉克綽特の地で察哈爾の固特塔布囊を討った際には衮楚克巴図魯も従軍し、扎嚕特部台吉喀巴海とともに奮撃して察哈爾台吉噶爾図を斬り七百人を得、八月に献俘、衮楚克巴図魯に達爾漢、喀巴海に偉徴の号を賜った。
  • 九月己卯、従征察哈爾の将士に賚賞した。九月癸亥、太宗は自ら軍を統率し察哈爾を征討、前もって巴克什希福らを遣わし西北の帰順した外藩蒙古部長に会師を命じ、乙丑敖漢部索諾木杜稜・柰曼部衮楚克巴図魯が都爾弼の地で、丙寅喀爾喀部諸貝勒が遼陽で、庚午扎嚕特部台吉喀巴海が綽囉郭勒の地でそれぞれ合流、大軍は七日駐営し、喀喇沁部蘇布地・万丹偉徴やラス喀布汗弼喇什台吉らも相次いで兵を率いて到着、宴を催し献上された財幣駝馬は辞退したが、初めて会師した者にはみな甲冑を賜った。丙子大軍は夜通し進発し錫爾哈・錫伯図・英湯図の諸処で察哈爾部衆を撃破、精騎を選んで追撃、戊寅興安嶺に至り無数の俘虜を得て抗う者は殺し、降る者は編戸として連れ帰った。己卯功に応じ俘獲人口を将士に分与し、従征・居守を問わず宗室にはそれぞれ牛一頭を賜った。
  • 先に巴克什希福が科爾沁部へ綽囉郭勒での会師を求めに行った際、土謝図汗奥巴らは「まず自ら察哈爾を掠め、そのあとで会師する」と答えていた。太宗は再び希福に勇士八人を授けて促したが、奥巴は掠奪を終えるとすぐ帰ってしまい、台吉満珠什哩と貝勒洪果爾の子巴敦だけが俘獲品を携えて合流した。太宗は満珠什哩に達爾漢巴図魯、巴敦に達爾漢卓哩克図の号を賜り、それぞれに財幣・駝馬・牛羊を厚く賜った。

降人の擅殺を厳禁

  • 冬十月丙申、降人を勝手に殺すことを厳禁した。先に大軍が察哈爾征討に向かう際、疲れた馬を敖漢済農城に残し各旗官一員に守らせていたが、病のため留まっていた達敏という者が、たまたま来降した察哈爾国の嘛哈噶喇の一行を配下とともに掠奪し男女を皆殺しにした。太宗はこれを聞いて達敏を誅し、従った者には各々鞭八十と耳鼻に貫く刑を科して見せしめとした。師が渾河に戻ったこの時、太宗は敖漢・柰曼・巴林・扎嚕特の諸貝勒に、来降者を邀撃して殺す例が多いのは撫恤同仁の意に反すると諭し、以後は貝勒が知りながら殺害を許せば十戸の罰、貝勒が知らぬまま属下が勝手に劫殺すれば当人は死罪・妻子は奴とし、告発者は内地で養う、各国は辺境に哨卒を置き、違反すれば牛五頭、哨卒が命令に従わなければ牛一頭の罰とすることを定めた。

扎嚕特右翼の来帰と獵射の質験令

  • 十二月丁亥朔、扎嚕特右翼が来帰した。先に扎嚕特右翼貝勒色本は察哈爾林丹汗の侵掠を受け科爾沁を頼っていたが、科爾沁も彼を養いきれずにいた。このとき色本は弟瑪尼とともに、聖主の撫字懐柔が遠くまで及んでいると聞き部衆を率いて楽土に帰依したいと奏聞、太宗は諸貝勒とともに一里外まで出迎え、御殿で朝見・大宴を催した。また瑚弼爾図の子根都爾珠、徹果勒図の子桑古勒・桑阿爾齋も、かつて察哈爾の侵攻で離散し科爾沁に身を寄せていたが、徹果勒図が没し科爾沁の侵擾に耐えかねたため配下を挙げて来帰したいと願い出、開原の北まで来て馬駝を献じ朝見した。太宗は官を遣わして各々に牧地を割り当てた。この時、東方巴雅喇部頭目伊爾滮図爾哈布韜伊図喀も部衆を率いて来朝し貂狐皮を貢いだ。
  • 戊子、獵射の質験令を定めた。以前は狩猟の際、諸貝勒に配下が争わぬよう誓約させていたが、このとき太宗は諸貝勒と東北四百里外の三窪の地で狩猟を行い、獲物を射止めたことについて争論があれば審理官に付して質対させ、貝勒であるか一般の者であるかを問わず射た傷跡が符合すれば認定するよう命じた。この狩猟で太宗自ら虎五頭を仕留め、従臣はその神業に驚嘆した。