皇清開國方略太祖髙皇帝 天命五年庚申 1620年

察哈爾との書簡応酬

  • 春正月丙申、察哈爾に使者を送り書を届けた。先立つ天命四年十月、察哈爾林丹汗が使者康喀勒拜瑚に書を持たせて寄越したが、その言辞は驕慢であった。諸貝勒大臣は激怒し使者の処刑や耳・鼻削ぎを求めたが、太祖は「怒りはもっともだが使者に罪はない、遣わした者の罪だ」として使者を抑留し、返書を送った。
  • 返書で太祖は「四十万蒙古の主を称し我を『水濱三万人の主』と侮るが、明の洪武帝が大都を取った時、四十万蒙古はほぼ壊滅し逃れた者もわずか六万に過ぎず、その中でも鄂爾多斯・土黙特・阿蘇特雍謝布喀喇沁に分属した者を除けば貴殿に属する者はごく僅かのはず。天地の加護によって我は哈達・輝発・烏拉・葉赫、さらに明の撫順・清河・開原・鉄嶺を得た。貴殿が明から広寧の賦を得ているというなら、それは武力によるものか、姻戚の情によるものか。貴殿が明と怨みなき我に対しこのような暴言を吐くのは天意に逆らうものだ」と反駁した。
  • 林丹汗はこれに答えず我が使者碩色・武巴什を抑留した。太祖は康喀勒拜瑚を殺そうとしたが、四貝勒が「使者殺害は誤伝かもしれない」と諫め、書を送って期限内の使者交換を求めた。しかし林丹汗は応じず、喀爾喀の使者から碩色・武巴什がすでに旗を祭る犠牲として殺されたと伝えられた。太祖は一月余り待った末、康喀勒拜瑚を斬ったが、その後密かに脱走した。

扎嚕特部色本の帰還

  • 三月己夘朔、扎嚕特部色本を釈放し帰国させた。先立つ明の鉄嶺征討の際、色本は兄の巴克とともに我が国に捕らえられていたが、太祖は蟒衣・猞猁猻裘・冠帯靴袍鞍馬を賜って送り出し、色本は「永く恩に背かない」と誓う書を天に焼いて去った。

功臣の爵職の制定

  • 辛巳、功臣の爵職を定めた。総兵官を三等に分け、副将・参将・遊撃も同様とし、牛录を管する官は皆備禦と称し、牛录ごとに千総四員を置いた。この月、左翼総兵官費英東が没した。費英東は蘇完の人で、帰順以来太祖に一等大臣として仕え、忠直の士として国事の欠を極言してきた。太祖は諸貝勒の諫めを退けて自ら喪に赴き、深夜まで哭泣して悼んだ。

訴えの公開制度

  • 六月庚戍、門外に納言の木を設け、「下情が上に達しない場合、訴えたい言葉を書いて木に懸けよ、朕がその始末を按問する」と諭した。

明の懿路・蒲河への出兵

  • 秋八月丙寅、明の懿路・蒲河(懿路城は鉄嶺城の西南六十里・瀋陽城の東北七十里、蒲河城は瀋陽城の西北四十里)を征討した。太祖は両路から進軍したが、明の居民は皆城を棄てて逃げ、我が軍が兵を収めて駐営していたところ、明兵が我が偵察地を越えてきたとの報告を受け、太祖は自ら馬を上げて迎撃を命じた。明総兵賀世賢・李秉誠、副将趙率教・鮑承先は瀋陽城外二十里に出ていたが我が軍を見て退却、三貝勒莽古爾泰が百騎で追撃し瀋陽城東の渾河まで、左翼一旗も賀世賢・鮑承先の兵を瀋陽北門まで追い百余級を斬った。四貝勒は追撃を望んだが大貝勒代善と大臣扈爾漢がこれを止め、太祖は俘獲を功に応じて分配し凱旋した。