皇清開國方略太祖髙皇帝 按語(己未年の戦況と辺事に関する考証)

史論(臣等謹案)

  • 明臣黄道周の『博物典彙』は、「己未の冬、薊の人々は建州が飢え一日粥二椀で過ごしていると噂したが、識者は『充実せる者は虚しく見せかける』と評した。薊人は建州の困窮を喜んでいたが、劉総戎(劉綎)がその寨を破ってみると五穀が倉に満ちており、深謀遠慮の実態はこのようなものだった」とし、さらに附録の史氏の言を引いて、「建州は元来清河・撫順の糴(買い付け)に頼っていた弾丸の地であり、清河・撫順が陥落しても守りに就かなかったのは遠志なきゆえ。我が徴兵が漸く集まった頃に軽騎で耕牧を擾せば座して制圧できたはずが、逆に鋭く出塞して自ら破れを招いた。用兵は敵の飢飽労逸を欺くことに巧みでなければならないのに、我は逆に軍期を漏らし重険に深入りして輜重を敵に与え、敵の勢いを助長させ三軍の胆を奪われた。それゆえ遼陽・瀋陽の陥落も開原・鉄嶺の陥落の延長に過ぎない」と論じる。清撫とは清河・撫順、開鉄とは開原・鉄嶺、海西北関とは葉赫、西部とは喀爾喀・察哈爾・喀喇沁を指し、劉総戎とは劉綎のことで、その棟鄂路侵攻と戦死は己未三月の出来事であるから、道周の言う「己未冬」は「戊午冬」の誤りと考えられる。
  • 『実録』には天命四年二月、夫役一万五千人を興して石材を運び界藩城を築いたとあり、以工代賑(工事を通じた救済)や寓兵於工(軍事と労役の一体化)を述べていないため、飢えに苦しんでいたわけではないことは明らかである。工事が始まったばかりの頃、楊鎬は瀋陽で兵を集め期を定めて深入りしており、当時開原・三岔・寛甸はなお明の支配下にあったが、撫順・清河はすでに我が手中にあって数か月が過ぎていた。それでも兵を常駐させず退いて旧来の界藩に築城したことが、明人に「遠志なし」と誤認させたのであろう。薩爾滸の戦いの前、吉林崖で築城の夫役がわずかな兵で明軍二万を打ち破ったことは、食も兵も十分であったことの証左であり、「充実せる者は虚しく見せかける」の一例である。
  • かつて乙卯年六月、貝勒大臣が明討伐を求めた際、太祖髙皇帝は「蓄積がまだ十分でない、今は撫民・辺備・農耕・貯穀を先務とすべき」と諭され、三年後に撫順を征討するにあたっては、将士に甲冑・軍器の整備を命じ、馬廐修築を名目に七百人を派して攻具を準備させた。この深謀遠慮こそ、撫順・清河を守らずに界藩に築城したことと軌を一にするものであり、まさに「撫民・辺備・農耕・貯穀」の実践であり、同時に敵を制する神算でもあった。この結果、十余万の敵を殲滅した。清河から呼蘭に向かった軍と開原に迫った葉赫兵は戦わずして退き、尚間崖で逃れた総兵馬林はなお開原を守ったが、二か月後に我が軍がこれを破り、援軍の鉄嶺兵三千を撃退した上でその城も落とし、葉赫も滅ぼし、喀爾喀も服して盟を乞うた。明人が自らを咎めるのも当然であり、「鋭く出塞し重険に深入りして一蹶不振に陥った」原因を「間諜の巧妙さ、敵の飢飽労逸を利用したこと」に帰する道周の見解は、なお実情の一端しか捉えていない。
  • また明臣熊廷弼の奏疏には、「遼左は京師の肩背、河東は遼鎮の腹心、開原は河東の根本であり、開原が破れる前は北関(葉赫)・朝鮮がなお敵の背後を脅かす存在だったが、開原が破れて以降、北関も朝鮮も服さざるを得なくなった。清撫を復さなかったために開原を失う結果を招いたのと同様、開原を復さなければ遼鎮を失うことになろう」とあり、道周の「遼瀋の陥落は開鉄の延長」との説と符合する。熊廷弼はさらに「我が兵五が敵一に当たるべきところ、敵すでに十万、我が方十八万を揃えてもなお足りない」と述べているが、これは我が太祖髙皇帝の用兵が神の如く、天戈の向かうところ百に一を以て当たる勢いであったこと、そして当時の大軍が実際には数万に満たなかったことを思えば、熊廷弼が我が軍を深く恐れていたことの証左である。廷弼はまた、開原の余財十数万を近隣諸部に分け与えて我を東西から挟撃させようとする策を説いたが、これは彼が我が朝の威徳が遠近の諸部を心服させていた事実を知らず、狭小な見識で君主を動揺させようとしたに過ぎない。
  • 臣等は謹んで乾隆四十一年の御製文を拝読するに、『実録』は尊蔵され容易に人の目に触れぬため、特に薩爾滸山で明軍を大破した事跡を記し、子孫臣庶に開創の艱難を忘れぬよう示された。その訓えに「国家の興隆には禎祥の賜物があるが、禎祥は天より下り、天の賜物は人による」とあり、また「その時、草創の基は篳路藍縷、地は数千里に満たず兵は数万に満たなかったが、父子君臣が心を合わせ、天の寵に応えて明の二十万の衆を破った」と仰せられた。皇上のこの数言は、史臣の千万言を凝縮したものであり、明臣の言う「三軍の胆を奪われ智勇ともに困窮した」との評とも符合し、神算妙謀の向かうところ敵なきことを示すものである。瀋陽・遼陽が版図に帰す以前から、すでにその威霊は輝いていたのである。