高士傳卷三 郭太

出自と修学

  • 郭太は字を林宗といい、太原の人である。若くして父母に孝を尽くすことで知られ、身の丈は八尺余りあった。家は貧しく、郡県が吏に取り立てようとしたが、太は「男児たる者、どうして鞭や升斗を執るような小役人になれようか」と嘆いた。
  • そこで母に別れを告げ、同県の宗仲とともに京師に赴き、屈伯彦について『春秋』を学び、広く通暁した。また人物を見る目にも優れ、これによって陳・梁の間にその名を知られた。

名望と人物鑑定

  • ある時、歩いていて雨に遭い頭巾の一角が濡れて垂れたところ、人々はこれを慕って皆わざと頭巾の角を折って真似た。士人は争って彼のもとに集まり、その言行を記した書は車に満ちるほどであった。太が無名のうちに見出した人物は六十余人にのぼり、皆その後の活躍で裏付けられた。
  • 母の喪に服して帰郷した際、徐稚が弔問に訪れ、生の刈草一束を太の廬の前に置いて立ち去った。太は「これはきっと南州の高士徐孺子であろう。『詩経』にも『生芻一束、其の人玉の如し』とあるが、私はこの喩えに堪えない」と言った。

終わり

  • 司徒からの大常への辟召、趙典の有道への推挙にも、いずれも応じず、建寧二年(169年)、自宅で没した。