少年時の諫言
- 申屠蟠は字を子龍といい、陳留外黄の人で、若くして名節をもって知られた。同県の緱氏の娘玉が父の仇を討ったため、外黄令の梁配は玉を死罪に問おうとした。蟠はこのとき十五歳で諸生であったが、進み出て諫めた。「玉の節義と孝養は、恥知らずの子孫を感化し、恥辱に耐える者を奮い立たせるに足るものです。太平の世に遭わなかったとしても、なお墓に旌を立てて表彰すべきでしょう。まして今の清らかな政道のもとで、これに哀れみを加えないことがありましょうか。」配はこの言を善しとし、上申して減刑させた。郷里の人々は蟠を称えた。
隠棲と学問
- 蟠は父母が亡くなると、哀しみのあまり酒肉を十余年断ち、その後隠居して京氏の『易』、厳氏の『春秋』、小戴の『礼』を学んだ。この三業に先に通じ、さらに五経を広く貫き、あわせて図緯にも明るく、学問に定まった師を持たなかった。
王子居への義
- 当初、済陰の王子居とともに太学におり、子居が病に苦しんだとき、我が身を蟠に託した。蟠はすぐにその亡骸を背負って歩き、済陰に向かい、河・鞏の間で司隷の従事に出会った。従事はその義心に感じ入り、通行証を発行して蟠を護送しようとしたが、蟠はこれを受けず、通行証を地に投げ捨てて立ち去った。事を終えると家に帰った。
- その後、幾度も特別に招かれたが、いずれも応じなかった。七十四歳で天寿を全うして没した。