出自と気性
- 夏馥は字を子治といい、陳留圉の人である。若くして諸生となり、質朴で妥協せず、行動は必ず道理に従った。同県の高儉と蔡氏はいずれも豪富の家で、郡の人々は恐れて仕えたが、馥だけは門を閉ざして高氏・蔡氏と交わらなかった。
徴召を辞退
- 桓帝の即位後、災異がしきりに起こり、詔によって百官に各一人ずつ直言の士を推薦させた。太尉の趙戒は馥を推薦したが、馥は赴かず、長らく身を隠した。
党錮の禍と潜伏
- 霊帝の即位後、中常侍の曹節らが朝政を専断し、善良な士を禁錮して「党人」と呼んだ。馥は時の官と交わっていなかったが、その名声は節らに憚られ、汝南の范滂、山陽の張儉ら数百人とともに党人として誣告された。詔が郡県に下り、それぞれ党の首魁として捕らえるよう命じた。
- 馥は足を踏み鳴らして嘆いた。「わざわいは自ら招いたもの、それが罪もない善人を汚すことになった。一人が死を逃れれば、禍は万家に及ぶ。生きて何になろうか。」そこで自ら髭を剃り、服装と姿を変えて林慮山に入り、鍛冶職人の下働きとなった。姿は憔悴しきり、三年間傭われても誰も気づく者がいなかった。
- 後に党人赦免の詔が下り、張儉らは皆出てきたが、馥だけは「既に人に見捨てられた身、今さら郷里に顔を戻すべきではない」と嘆き、雇われ仕事を続けて帰らなかった。家族が探しても行方は知れなかった。
- その後、馥の声を聞き覚えていた者がいて、同郡の止郷太守濮陽潜に知らせ、潜は人をやって車で馥を迎えさせたが、馥は身を隠して応じず、潜が車を三度差し向けてようやく馥を得ることができた。