契丹國志卷二十二 帝紀(保大三年以降) 天祚皇帝

天祚皇帝最末期。燕京陥落後、蕭后・耶律大石・蕭幹らが離散、平州の張瑴が一時抵抗するも滅び、天祚自身も再挙を図るが金軍に捕らえられ海濱王に降され、遼はここに滅亡した。

年表(7件)

保大三年(1123年)――燕京陥落と蕭后の敗走

  • 春正月、金主(阿骨打)が居庸関に入り、申の刻に燕に到着した。蕭后は居庸関陥落を聞き、夜のうちに蕭幹および車帳を率いて城を出て、敵を迎え撃つと称しながら実は逃亡しようとした。国相の左企弓らが国門で見送ると、后は「国難がここまで至った。私は自ら諸軍を率いて社稷のために一戦する。勝てば再びお前たちに会えよう。さもなくば死ぬのみだ。お前たちは努めて我が民を守り、みだりに殺されることのないようにせよ」と言い、涙を流して去った。
  • 后がまだ五十里も行かないうちに、金の遊撃騎兵はすでに城に迫っていた。左企弓らは守備の準備をしていたが、突然、統軍の蕭乙信が城門を開いたとの報が入り、金の前軍はすでに城に登っていた。そこで左企弓・虞仲文・曹勇義・劉彦宗・蕭乙信らは迎え降り、丹鳳門の毬場に出て投降した。阿骨打は戎装のまま座り、衆はみな万歳を唱え、伏して拝礼し、下座で処分を待った。通訳の者が「城頭の砲の縄や筵の角も少しも動いていない。これは我らに抵抗する意志のない証だ」と言い、みな罪を許された。

保大三年(1123年)――蕭后の東行と大奚国の成立

  • これより先、蕭后は東へ逃れて金人を避け、松亭関に至って行き先を議した。耶律大石林牙(遼の人)は天祚に帰そうとし、四軍大王・蕭幹(奚の人)は奚王府に赴いて国を立てようとした。宣宗の駙馬都尉・蕭勃迭が「今日は当然天祚に帰るべきだが、どんな顔をして相見えるのか」と言うと、林牙は左右に命じて彼を引き出して斬らせた。軍中に令を伝え、異論を唱える者は斬るとした。そこで遼・奚の軍は陣を分けて対立するに至った。遼軍は林牙に従い、蕭后を伴って夾山の天祚のもとへ帰った。このとき奚・渤海の軍は蕭幹に従って奚王府に留まり、幹はその府に拠って自立し、「神聖皇帝」を僭称し、国号を「大奚」、年号を「天興」と改めた。当時、奚の中では食糧が欠乏していた。
  • 六月、奚の兵が盧龍嶺から出撃し、景州を攻め破って守臣の劉滋・通判の楊伯栄を殺した。さらに常勝軍の張令徽・劉舜仁の軍を石門鎮で破り、薊州を陥落させ、守臣の高公輔は城を捨てて逃げた。さらに燕の城を侵掠し、その勢いは鋭く、黄河を渡って京師を犯す気配すらあった。人心は騒然とし、燕を放棄しようとする議論も多く出た。宋の童貫は京師から文書を発し、王安中・郭薬師を厳しく責めた。
  • 七月、奚の兵は郭薬師と腰鋪で戦い大敗して帰った。薬師は勝ちに乗じて追撃し、盧龍嶺を越えて殺傷は過半に及んだ。従軍していた老幼の車が糧食を求めて後方にいたが、ことごとく常勝軍に捕らえられ、これによって奚・渤海・漢の軍五千余人が投降した。諸軍は老幼を失い、蕭幹に誤られたことを恨み憤り、その部下の白得哥に殺された。首は河間府安撫使の詹度のもとに送られ、宋朝に献じられた。徽宗は紫宸殿で祝賀を受けた。
  • このとき、蕭幹はすでに腰鋪で敗れ、その党の夔離不も峯山で敗れ、偽の阿骨魯太師を生け捕りにし、耶律徳光の尊号の宝検(印璽)と契丹の塗金の印を得た。常勝軍はこれによりますます勢いを増し、薬師もこれを助けたため、朝廷はこれを制御できなくなった。
  • 耶律大石林牙は兵七千を率いて夾山に至った。天祚は蕭后と甥の常哥を殺すよう命じたが、他の者は罪を免じた。

保大三年(1123年)――張瑴の平州擁立と挙兵

  • 張瑴は平州の人で、進士に及第していた。建福元年、遼興軍節度使を授けられた。郷兵の通過に際し節度使・蕭諦里の一族二百口を殺し、家財数十万を掠奪する事件が起きたが、瑴は同郷の縁で安撫し乱を鎮めた功により、平州の政務を代行する権知平州事となった。燕王が死ぬと、瑴は契丹が必ず滅びると見て、管内の壮丁を籍に登録して軍に充て、五万人と馬一千匹を得、豪傑を招いて密かに一方の備えとした。蕭太后がかつて太子少保・時立愛を遣わして平州を治めさせようとしたが、瑴はこれを容れない構えを見せた。これにより立愛は常に病と称して出仕せず、瑴は依然として州事を代行した。
  • 金人が燕を陥落させると、粘罕はまず張瑴の一件を問うた。参政知事の康公弼は「張瑴は狂妄で謀に乏しく、兵数万を有すると言っても皆郷民で、武具も揃わず糧食も足りません。彼に何ができましょうか。疑わぬ態度を示し、後で図っても遅くはありません」と言った。粘罕は時立愛を軍前に招き、瑴を臨海軍節度使に進め、依然として平州の政務を任せた。燕の民を平州経由で本国に帰らせようとしたとき、粘罕は左企弓に「精兵二千余騎を先に遣わして平州を攻め、張瑴を捕らえてはどうか」と言い、左企弓らはこれに賛成したが、康公弼だけは「兵を加えれば、平州に叛乱を促すようなものです。私は以前の平州の守臣ですから、赴いて様子を見たいと思います」と言った。そこで金牌を授けられ、馬を馳せて瑴に会い、粘罕の意向を告げた。瑴は「契丹の天下八路のうち、七路はすでに降った。ただ一つ平州だけが、どうして異心を抱きましょうか。まだ武装を解いていないのは、北の蕭幹の侵略を防ぐためです」と言い、厚く賄賂を贈って帰らせた。康公弼が「彼は懸念に及ばない」と復命すると、粘罕はこれを信じた。そこで平州を南京と改め、さらに同中書門下事・判留守事を加えたが、実際には瑴を図ろうとしていた。

保大三年(1123年)――天祚の帰趨と燕人の帰郷

  • 五月、金主・阿骨打は燕山に帰り、北へ天祚を追ったが、病により軍中で崩じた。諡は大聖武元皇帝、廟号は太祖。弟の呉乞買が立ち、天輔六年を天会元年と改め、燕の相・左企弓ら文武百官と捕らわれていた燕の民を、平州を経て帰国させた。
  • 燕の民が平州の境に入ると、瑴に密かに訴える者があり、「左企弓は燕を守ることを謀らず、我らを流浪させ、この上ない苦しみを与えました。今、公は巨鎮に臨み強兵を握っておられます。大遼に忠を尽くせば、必ず我らを故郷に帰すことができましょう。人心も公に望みを託しております」と言った。瑴が諸将を召して議すると、みな「近頃聞くところでは天祚は再び勢いを盛り返し、松漠の南に出没しているという。金人が全軍を挙げて山西へ急いだのは、遼が背後を突くのを恐れたからだ。公が義を掲げ天祚を迎え奉じて興復を図り、まず左企弓の叛降の罪を責めて誅殺し、燕の民をことごとく本業に帰らせれば、南宋も必ず燕人を受け入れるだろう。そうすれば平州は藩鎮となる。もし金人が再び兵を加えても、内には平州の兵を用い、外には宋朝の援けを借りれば、何を恐れることがあろうか」と言った。瑴は「これは重大事だ。軽々しくは決められない。翰林学士の李石は知略に富む。密かに招いて謀を練るべきだ」と言った。李石が来て共に謀ると、意見が合った。
  • 翌日、密かに将官・張謙に五百騎を率いさせ、留守の令と称して燕の相・左企弓、曹勇義、枢密使・虞仲文、参知政事・康公弼を灤州の西岸に召し出させた。議事官の趙能を遣わして十の罪を数え上げさせた。天祚が夾山に落ち延びたのに直ちに迎え奉じなかったこと(第一)、皇叔の燕王に僭号を勧めたこと(第二)、君父をそしり湘陰王に降封されたこと(第三)、天祚がかつて知閣・王有慶を遣わして相談させようとしたのを殺したこと(第四)、檄書が届くと秦(金)を迎え湘(天祚)を拒む議をしたこと(第五)、燕を守ることを謀らず投降を拝したこと(第六)、金国に臣事して大義を顧みなかったこと(第七)、燕中の財物をかき集めて金人に取り入ったこと(第八)、燕の民を流亡させ生業を失わせたこと(第九)、金主に平州を先に攻めるよう仕向けたこと(第十)。いずれも弁解の言葉なく、そのまま縊り殺された。
  • 六月、燕の民に布告を出し、留守(左企弓ら)以外はすべて旧業への復帰を許した。常勝軍が占拠していた逃亡者の田宅もすべて元に戻した。燕人はもとより遠くに移されたことを苦にしていたため、故郷に帰り生業に戻れることを大いに喜んだ。宋の徽宗は燕民が帰ったことを聞き、詔を下して帥臣・詹度に多方面で慰撫させ、官のある者は都に呼び戻して官職を改め、その他の者はそれぞれ生業に戻らせ、三年間の常賦を免除した。
  • 張瑴はこれを聞いて策が図に当たったことを喜び、平・営・灤の三州を宋に降した。この地はもと後唐末に契丹の太祖が陥落させたもので、石晋が割譲した地ではない。灤州は太祖が建てたものである。詹度は張瑴の納土(帰順)の書を得たが受け取ることをためらい、密かに朝廷に奏上し、瑴には急がぬよう伝え、金人に知られることを恐れた。金主はこれを聞き、闍母国王に騎兵三千を率いさせて問罪に赴かせた。瑴は兵を率いて営州で防いだ。闍母は兵が少ないため交戦せずに帰り、州城の門に大書して「夏の暑さを避けてひとまず去る。今冬また来る」と記した。瑴はすぐさま偽って戦勝を宋に報告し、銀絹数万匹と誥勅数道の褒賞を求めた。

保大三年(1123年)――張瑴の滅亡

  • 張瑴が金人に抵抗する間、外には大宋に款を通じ、蕭幹とも好誼を結んで緩急に備え救援を求め、内には天祚の画像を安んじて奉り、事を挙げるたびにまず奏上してから行い、なお遼の官職の秩序を用い、保大三年の年号を称し、人を遣わして天祚を迎え興復を図ろうとした。
  • このとき、燕の人に李汝弼という者があったが、これは翰林学士の李石であった。高党という者は三司使の高履であった。二人はかつて捕らわれの身であったが、張瑴によって解放されて帰り、宣撫使の王安中に会い、朝廷が密かにこれ(天祚)を迎え入れるよう勧めた。燕山路転運使の趙良嗣はこれに強く反対し、金人に禍の端緒を開くことを恐れて、李汝弼を斬って見せしめにするよう求めたが、宋朝はこれに従わなかった。瑴には泰寧軍節度使が授けられ、平州を世襲することとなり、その属官・張敦固らはみな待制に抜擢された。瑴は宋の詔を得て喜び、官属を率いて郊外まで出迎えた。
  • 金人はこれを知り、千騎で平州を襲い破った。瑴は身一つで逃れ、間道から京師に赴こうとしたが、郭薬師に捕らえられた。これにより金人はその罪を宋に帰し、檄を移して引き渡しを求めた。宋朝はやむを得ず王安中に命じて瑴を絞め殺させ、水銀でその首を漬け、平州へ送り返した。
  • 八月朔、日食があったが、雲に覆われて見えなかった。

保大四年(1124年)――天祚の再挙と大石林牙の諫言

  • 秋七月、金人は応州・蔚州などを陥落させた。
  • この秋、天祚は耶律大石林牙の兵を得て帰り、さらに陰山室韋の毛割石の兵も得て、天がわが中興を助けたと自ら思い、再び燕・雲の地を回復しようと出兵を謀った。大石林牙は力を尽くして諫め、「金人が初めて長春・遼陽の両路を陥落させたときには、車駕は広平甸に幸して中京に都を移し、上京が陥落したときには燕山に都を移し、中京が陥落したときには雲中に幸し、雲中が破られたときには夾山に都を移した。これまで全軍を挙げて戦備を謀らなかったため、遂に国中の漢地はことごとく金人の有するところとなった。今、国勢はこれほどまで衰微しているのに力で戦を求めるのは得策ではない。兵を養い時を待って動くべきで、軽々しく事を起こしてはならない」と言った。天祚はこれを退けて従わなかった。大石林牙は病と称して従軍せず、天祚はついに諸軍を強いて率い夾山を出て漁陽嶺を下り、天徳軍・東勝・寧辺・雲内などの州を取り、南して武州へ下り、金人の兀室と遭遇し、奄曷下水で戦った。
  • 兀室は山西の漢人郷兵を前駆とし、女真の騎兵千余を山間に伏せ、室韋の毛割石の兵の背後に出た。毛割石の兵はこれを見て大いに驚き、すべて潰走した。天祚は陰夾山に逃げ込んだ。金人は勢いに乗じて攻め入ることができず、天祚が出てこないことを恨み、出れば必ず捕らえようとした。天祚もまた粘罕の兵が雲中にあることを恐れ、あえて出なかった。
  • やがて粘罕が本国に帰り、兀室が代わって雲中を守っていると聞くと、天祚は韃靼の諸軍五万を率い、后妃と二子(秦王・趙王)および宗族を伴って南へ来た。大石林牙はこれを諫めたが聞き入れられず、ついに漁陽嶺を越えたが、粘罕はすでに雲中に戻っていたため、再び山金司に逃げ、小胡魯と南宋へ帰ることを謀ったが、頼りにならないことを恐れ、夏国へ逃げることを謀った。計画が決まらぬうちに、小胡魯は密かに人を遣わして粘罕に急報し、粘罕はまず近臣を遣わして降伏を勧めたが返事がなく、金の使者・婁宿が馬を馳せて至り、天祚の前に跪いて「私は不才にして皇帝の天威を犯しました。死してもなお罪が余りましょう」と言い、杯を捧げて進めると、そのまま天祚を捕虜として連れ帰った。天祚は海濱王に封を削られ、長白山の東に送られて館を築いて住まわされ、翌乙巳年に没した。遼国はここに滅んだ。

保大四年(1124年)――天祚の逃亡の顛末

  • これより先、宋の徽宗の大観年間、林攄が使者として来た際、遼国が儀礼の作法を習うよう命じたところ、攄はその煩雑さを嫌い、随伴の使者を「蕃狗(野蛮な犬)」と罵った。天祚は「大宋は兄弟の国であり、その臣は我が臣も同然である。今、我が側近を辱めるのは私を辱めるのと同じだ」と言い、これを殺そうとしたが、朝廷の者が涙ながらに諫めたため中止した。
  • 天祚が山金司にいた頃、術策も尽きて南宋に帰ろうと考え、過去のことを思い出し、南宋が必ずしも礼をもって迎えてくれるとは限らないと恐れ、小勃律へ逃げたが受け入れられず、夜になって引き返した。さらに雲中へ向かおうとしたが、夜明け前に間諜に遭い、婁宿の軍が間もなく到着するとの知らせを受けた。天祚は大いに驚いた。この時、従う騎兵はなお千余人おり、丈六尺もある精金鋳造の仏像や、それに見合う数々の宝物を有していたが、これらをすべて捨てて逃げた。折しも雪が降り、車馬の跡が残ったため、金の兵に追いつかれてしまった。
  • 当初、女真が攻め込んできた頃、しばしば災異の現象が現れ、市中で狂ったように歌う者がいて「遼国はまもなく滅びる」と言った。急いで人を遣わして追わせると、その者は人の顔に獣の体をしており、なおも「まもなく滅びる」の二字を繰り返しながら山中に駆け込んで見えなくなったという。変異はこの通りであり、興亡の運命というものは、決して偶然ではないのであろう。

史論

  • 前史に「一つの秦がすでに滅び、また一つの秦が生まれた」というが、天祚に対する阿骨打は、あたかも唐末における阿保機のようなものである。大勢がすでに去れば水の流れも濁り、その時に当たれば人の営みも冥符する(暗に符合する)ものである。
  • 契丹の興りは阿保機に始まり、同光(後唐荘宗)の酒色の禍を、代々戒めとしてきた。数世代を経て遊猟に耽ることはあっても、四季の遷徙にはついに定まった制度がなかった。内には郡邑を消耗させ、外には隣国を騒がせ、ついには女真の地で海東青(鷹)を捕らえさせ、萌骨子の地で細犬を取らせるなど、内外が騒然として禍乱がここに至った。
  • そのうえ天祚は無道であり、鳥獣と女色の両方に溺れ、寵臣が権をふるい、任用する人物を誤り、統制は弱々しく、部曲は乱れ騒いだ。強盗が門に迫れば嬰児の金すら惜しまず手放すというが、虎狼が檻を出れば、誰が孟賁のような勇者を担おうか。この暗愚な君主を見れば、まことに痛ましいことである。しかし存亡が交代するのもまた、天の定めに暗合するものであろうか。