契丹國志卷二十三 列傳 述律魯速・蕭延思・劉珂・蕭守興・蕭孝穆・蕭奧只
述律魯速――太祖の外戚として
- 述律魯速は太祖皇后の兄で、蕃部の人。代々酋長を務める家柄である。
- 若くして武勇に優れ膽略があり、部人に畏れられた。太祖に従って奚を平定する功を立て、統軍使に任じられた。
- 盧文進が新州から契丹に投降してきた際、太祖が毎年燕の塞に入るのに従軍した。また周德威を幽州に包囲した戦にも従い、機略に富んで城を陥落寸前まで追い詰めたが、救援が来たため退いた。
- のちに奚王府監軍・東路兵馬都統軍に改任された。
- 子の屈列は奧哥公主を娶った。
蕭延思――太宗の外戚として
- 蕭延思は涿州の人で、太宗皇后の父にあたる。若くして武芸を習い、腕力に優れ、左右どちらの手でも弓を引くことができた。
- 太祖の代から諸蕃平定に従い、しばしば騎兵数十を率いて敵陣深くに入り、戦功を重ねた。
- 太宗が南下して石晋を援けた際、既に少掃古撒は没していたが、太宗は常に「この人がまだ生きていれば、中原の平定など難しくなかったろう」と嘆いた。
- 最終的に北面都部署・遼興節度使を務めて終えた。
劉珂――太宗に仕えて
- 劉珂は平章事劉晞の次子で、世宗の妹燕國公主を娶った。若くして弓に長け、才能で知られた。性質は謹み深く、過ちを犯したことがなく、太宗に重んじられた。
- 太宗が石晋の恩義に背く行為を怒り、連年南方に出兵した際、定州の戦で深く進軍し、帝の馬が泥濘にはまった。劉珂は下馬して帝を救い出し、自らは数十の傷を負って全身血にまみれたため、太宗はこれを壮とした。
- 林牙・行宮都部署・西北路兵馬招討使に昇進し、大梁攻めにも従軍。同知京府事に任じられ、次いで漢人樞密使に任じられ、吳王に封じられた。
蕭守興――景宗の外戚として
- 蕭守興は蕃名を喂呱といい、侍中解里鉢の長子である。はじめ祗候郎君・林牙・左宣徽使を務めた。
- 景宗がまだ藩に居た頃、燕燕(后)は妃であったが、景宗即位に伴い皇后に冊立された。守興は后の父として侍中となり、国政に与った。
- 当時、景宗は病に臥し、北漢の反乱はほぼ平定されていたが南宋の圧力が強く、しばしば蠟丸の書で援を求めた。守興は柱石たる器量になく兵勢も弱かったため、石嶺関南の戦いで一万余人を喪う敗北を喫した。
- のちに尚書令に昇進し魏王に封じられ、待遇はますます厚くなった。しかし年老いてからは私情に流れることが多く、官吏がわずかな言葉の誤りを犯しただけでもこれを摘発して明らかにするため、朝廷はこれを煩わしく思ったが、后を畏れて誰も言い出せなかった。
蕭孝穆――聖宗・興宗の重臣として
- 蕭孝穆は蕃名を陳六といい、法天皇后の兄である。もと后が宮中に選ばれ聖宗の夫人となった際、大將軍に任じられた。后が元妃に冊立されると北宰相に遷り、燕王に封じられた。
- 孝穆は機知に富み才芸があり、馬を馳せながら五つの的を射ることができ、当時これに及ぶ者はいなかった。
- 聖宗はその忠謹を喜び、軍国の大謀に参画させた。渤海が東京で反乱を起こし数万の衆を集めた際、孝穆を行営兵馬都統に任じて討伐させた。大酋の宿石真が金閭山上に柵を築いて険峻な地に拠ったため攻めがたかったが、孝穆は恩意を宣揚して自新を許し、七万余戸を招降して帰還した。この功により東遼王に任じられた。
- 聖宗の病が篤くなった際には急遽召され朝廷に赴いた。聖宗が崩じると、輔立の功により晋王に封じられた。また娘を興宗の后として納れ、樞密使・楚國王に任じられた。
蕭奧只――聖宗・興宗に仕えて
- 蕭奧只は蕃名を掃古といい、燕京統軍使撻里麼の子である。撻里麼は統和年間に南宋の澶州を攻めた際、流れ矢に当たり城下で戦死した。
- 奧只は父の戦功により祗候郎君となり、林牙・契丹諸行宮都部署を経て彰國節度使に遷った。家門は貴盛でありながら謙虚に人と接し、名士を引き立てたため世論に賢者と評された。
- 宋の張昪が使者として来た際、奧只は侍中として館伴を務め、「両朝の盟約は山河のごとく固い。些細な嫌疑をもって大きな信義を損なってはならない」と落ち着いて語り、張昪と終日談論して歓を尽くした。張昪も「侍中は北朝の儀表である」と深く敬い異とした。
- のちに北宰相・宣徽使に任じられ、鄭王に封じられた。
史論
- 論じて言う。漢の呂氏諸族は炎光をほとんど曚らせ、唐の三思一族は皇運を厄に陥れた。古今の外戚の家で、驕奢にして権勢を恃み、ついに窮迫して敗れなかった例はない。述律氏ら諸人は武人の出でありながら輝かしい栄達を重ね、金印を連ねる封を得ながらも権勢を誇示するような跡は見られず、この点は稀有と言うべきである。しかし契丹が滅んだ因を考えれば、結局それは外戚の家からではなかった。乱の起こりは天から降るものではなく、時の君主は后族を永く戒めとすべきであろう。蕭奉先ら(外戚の悪例)は別に伝がある。