契丹國志卷二十一 列傳 馬保忠・張琳・蕭奉先・李儼・耶律余覩・大實
馬保忠
- 馬保忠は営州の人である。眉目は疎らで下膨れの顔立ちをしており、慎み深く欲少なく、細かいことにまで自らを修め、士人はその行いを立派だと評した。自ら努めて読書し、州県に謁見を求めることはなく、倹約して親族や郷里の者に施し、豊作の年には余りを郷党に分け与えた。太平年間に洗馬を授けられ、著作郎・殿中丞に転じた。興宗朝には枢密使・尚父・守太師兼政事令となり、燕国公に封ぜられた。
- 当時、朝政は乱れ、帝は仏教に耽溺し、僧侶が三公・三師に正式に任じられることもあるなど官爵は不相応の人物に濫授されていた。保忠はかつて穏やかに諫めたが、帝はかえって激しく怒った(詳しくは帝紀に見える)。また上言して「天下を強くするのは儒の道であり、天下を弱くするのは吏の道である。今の官の授け方は、おおむね吏によるもので儒によるものではない。儒の道を尊べば郷党の行いは修まり、徳行を修めれば冠冕(高位高官の系譜)も尊いものになる。今後、聖帝明王・孔孟聖賢の教えによらない者があれば、明詔を下し厳しく禁絶されることを望みます」と述べた。その風教への篤い思いはこの通りであった。
- 数年後、保忠は没し、剛簡の諡を賜った。
史論(馬保忠)
- 官の任用が適正でなければ人々は多くその地位を狙うようになり、任用の源が清くなければ下の者はみな競い争うようになる。契丹は重熙の頃より私的な謁見が横行し、官の授与に法度がなくなり、仏に膜拝する徒にすら公・孤(三公・三孤)の官を授けるほど、その乱れは極まった。保忠は空しい思いを包み隠さず述べたが、その言葉は懇切であったのに聞く者には疎かにされ、いかんともし難いことであった。
張琳
- 張琳は瀋州の人である。人となりは忠義で、慷慨として大志を抱いていた。道宗朝には秘書中允となった。天祚が即位すると二度戸部使となり、東京での人望を負った。女真の勢いが日に日に盛んになり、高永昌が渤海で叛乱を起こしたのは天慶六年のことである。
- 永昌の叛乱により遼東五十余州はことごとく陥落したが、瀋州だけは陥ちなかった。琳は郷里を痛み、自ら討伐しようとした。契丹はたびたび敗れ、精鋭の兵は十のうち一つも残っていなかった。琳は永昌を討とうとしたが手立てがなく、初めて「転戸軍」と呼ばれる軍を募った。遼東の渤海人はもとより契丹に恨みを持つ者たちであり、これを良民に転じさせれば、身を捨てて奮い立つことが期待できるという考えであった。命令が下ると、二万余の兵を得た。
- 琳は顕州から進軍し、渤海側は遼河の三叉口だけを守備していた。琳は疲弱な兵数千を遣わし、わざと攻めるように見せかけ、間道から精鋭の騎兵を渡河させ、まっすぐ瀋州に向かわせた。渤海側はようやく気づいた。三十余戦を経て、渤海はついに退いて東京を守った。その後、女真の援軍が到着すると、琳の軍は驚き恐れ、風に靡くように潰走し、死傷は数え切れなかった。琳は遼州に逃げ込み、遼興軍節度使に左遷された。それは平州のことである。
- その後、燕京副留守を授けられ、燕王・耶律淳とともに燕を守った。淳が僭位して改元すると、琳に守太師を命じ、十日に一度参内させ、平章軍国大事とさせたが、実際にはこれを疎んじたのであった。琳はついに鬱々として没した。
史論(張琳)
- 張琳は困難な時に遭い、郷国の危機に心を痛め、家運に恵まれずして燕王の即位に切歯した。女真の勢いは大河のように激しく広がり、灰を撒いて海に注ぐようなもので、どうして滅びずにいられようか。惜しむらくは、天下を争う機微の間で、君側の姦を清めて死ぬ志が全くなかったことである。これによって姦人に欺かれ、大節にいささか欠けるところがあったといえよう。
蕭奉先
- 蕭奉先は天祚の后族である。嗣先・保先はいずれもその弟である。奉先は道宗朝で内侍供奉となり、また承旨となり、吏部尚書を歴任した。宮中の恩寵によって専ら諂諛を事とし、宦官と結託し互いに党を組んだ。天祚朝に至ると、球戯・狩猟・声色が日々帝の心を蠱惑し、危機を防ぐことができず、女真の乱がここに始まった。奉先はこの頃、政事令・同平章事となり、さらに枢密使を兼ねた。
- 混同江で諸蕃が大会を開いた際、天祚はすでに阿骨打を疑い、密かに奉先に「阿骨打の意気は雄豪で顧視も並でない。事に乗じて誅すべきだ。そうしなければ後患を残す恐れがある」と語った。奉先は「阿骨打などの小人に何がわかりましょう。殺せば帰順の心を傷つけます。もし異心があるとしても、あんな小国に何ができましょうか」と答え、天祚はこれで思いとどまった。
- 天慶四年、阿骨打は兵を興して寧江州を屠った。翌年、阿骨打が再び至った。弟の嗣先は殿前都点検として東北路招討使となり、蕭撻勃也がこれを副えたが、陣を敷く前に潰走した。まもなく出河店の戦いでも嗣先はまた敗れた。宮廷に至って罪を待ったが、官を免ぜられただけであった。これにより士卒は闘志を失い、風を望んで潰走するようになった。保先もまた奉先の弟で、渤海留守・少師となったが、政令は厳酷で、これもまた女真の乱によって高永昌に殺された。渤海の乱はここに始まった。
- 天慶九年、女真が上京を攻め陥し、陵寝を発掘してその金銀珠玉を奪ったが、奉先はこれを抑えて天祚に奏上しなかった。天祚が陵寝のことを問うと、奉先は「当初は元宮を侵犯されましたが、陵寝を壊すまでには至っておりません」と答えた。その隠蔽と欺瞞はこの類であった。また耶律余覩が晋王を立てようとしていると誣告した。余覩が叛くと、奉先は「余覩は宗室の枝葉であり、遼を滅ぼそうとする者ではありません。ただ晋王を立てようと求めているに過ぎません」と言い、天祚はこれに惑わされ晋王に死を賜った。これを聞いた者は涙をぬぐい、衆心はますます離れた。
- 奉先は国政を握ること二十年近くに及び、ついに国は滅んだ。天祚が夾山に奔った際、奉先に「私をここまで誤らせたのはすべてお前の罪である。速やかに去るがよい。さもなければお前に禍が及び、私にまで累が及ぶ恐れがある」と言った。奉先が行くこと十里に満たぬうちに、左右の者に捕らえられ殺された。
李儼
- 李儼はもと漢地の人で、天祚の寵臣であった。幼い頃から狡猾で傑出し、放縦で並外れ、傲慢な態度でありながら、才知はその奸智を助けるものであった。蕭奉先と平生から親しく交わっていた。初め内侍省給事となり、たびたび昇進して中書供奉に至り、官は南面宰相に至り、漆水郡王に封ぜられた。
- 儼は狡猾で口先が巧みで、人にへつらうことに長け、天祚朝で国の枢柄を握ること十五年に及んだ。女真の乱が連年続く中、儼は奉先とともに帝を欺き隠蔽し、ついに国を滅ぼすに至ったが、天祚はこれを悟らなかった。儼はかつて知枢密院事の牛温と仲が悪く、それぞれ親しい者を推挙して朋党が乱れ立ったが、奉先を内なる後ろ盾とする儼に対し温は勝てなかった。儼が死ぬと、奉先はまたその甥の処温を推挙して宰相とし、ついに国を滅ぼすに至った。惜しいことに、儼は稾街での処刑を免れたという。
耶律余覩
- 耶律余覩、別名は余覩姑、国主の一族である。その妻は天祚の文妃の妹にあたる。
- 文妃は晋王を生み、諸子の中で最も賢であったため、蕭奉先はこれを忌み、余覩が晋王を立てようと謀っていると誣告した。余覩は女真に奔り帰し、女真は彼を西軍大監軍とした。長らく昇進せず、常に不満を抱き異心を持っていた。その軍が合董に集結した際、金牌を失い、女真は彼が林牙(耶律大石)と密かに通じているのではと疑い、その妻子を人質にとった。
- 余覩は叛心を抱き、翌年九月、燕京統軍と反乱を約した。統軍の兵はみな契丹人であり、余覩は雲中にいる西軍を誅殺しようと謀り、雲中・河東・河北・燕京の郡守にいる契丹人・漢人にことごとく約して、女真の官にある者・軍にある者を誅させようとした。天徳知軍はこれを偽って承諾し、その妻を遣わして密告させた。当時、悟室(兀室)は西監軍として雲中から燕に来ており、かすかにこの事を耳にしたがまだ信じておらず、通事の漢人・那也とともに数百里を行った。那也は二騎が急ぎ馳せるのを見て「監軍にお会いになりましたか」と問い、相手は「知らない」と答えた。誰かと問うと「余覩の下役」と答えた。那也は悟室に追いつき、「先ほど二人の契丹人が『余覩の下役だ』と申しておりました。西京にいながらどうして監軍を知らないのか、姦謀があるのではないか」と告げた。そこで馬を返して二人を追い捕らえ、その靴の中を捜すと余覩の書があり、「事はすでに漏れた。すぐに手を下すべきだ」と書かれていた。再び馳せて悟室に告げ、悟室はすぐに燕に戻った。統軍が謁見に来ると、これを縛って誅した。さらに二日後、雲中に至ると、余覩はかすかに事の露見を悟り、父子で狩猟を口実にして夏国へ逃げ込んだ。夏人が「兵はどれほどか」と問うと「親兵二、三百」と答えたため、受け入れなかった。韃靼に投じたが、韃靼はすでに悟室の命を受けており、その首領は偽って出迎え、帳中で食事を用意し、密かに兵で包囲した。韃靼は弓に長け甲冑を持たない民であったが、余覩は敵に勝てず父子ともに死んだ。この謀に関わった者はことごとく誅せられ、契丹の狡猾な者や漢人で名の知れた者も免れなかった。
大實
- 大実林牙。林牙とは官名で、中国の翰林学士に当たる。大実は小名であり、北地の人には姓のない者もいる。
- 大実は女真に降った後、大酋の粘罕と双六の遊びをして道を争い忿ったが、粘罕は内心これを殺そうと思いながら口には出さなかった。大実はこれを恐れ、自陣に戻るとすぐに妻を捨て、五人の子を連れて夜に逃げた。翌朝、粘罕は日が高くなっても大実が来ないのを怪しみ、召しに人を遣わすと、その妻は「昨夜、酒の上で大人(粘罕)の機嫌を損ね、罪を恐れて逃げました」と言った。行き先を尋ねても告げなかった。粘罕は大いに怒り、彼女を部落の最も卑しい者にあてがった。妻は屈することを拒み、強いられると口を極めて罵ったため、射殺された。
- 大実は沙漠の奥深くに入り、天祚の子である梁王を帝に立てて自らその相となった。女真は元遼の将であった余覩を遣わして兵を率いて経略させ、合董城に屯田した。大実は数十騎の遊軍を軍前に出入りさせた。余覩が使者を遣わして話をつけようとすると、大実は退いた。
- 沙漠地帯は不毛の地で、平らな砂の広漠が広がり、風が起これば砂塵が舞い上がって色も見分けられないほどであった。あるいは平地が瞬く間に数丈も盛り上がることもあり、水も泉も全くなく、多くの人が渇きで死んだ。大実の逃走は三昼夜を経てようやく渡り切ったといい、そのため女真は追跡を諦めた。遼の御用の馬数十万頭は砂漠の外で放牧されていたが、女真は遠すぎるとしてこれを取らず、みな大実の手に入った。今、梁王も大実もすでに亡くなったが、残党はなお当地に住んでいる。
史論(総評)
- 契丹を滅ぼしたのは蕭奉先と李儼であって、女真ではない。国の盛衰は、国政を握る臣がどうであるかにかかっている。天祚は荒淫にふけり、政を后族に委ね、奉先と儼の欺瞞に惑わされた。信じるべきでない阿骨打を信じ、害すべきでない晋王を害し、夾山の禍はここに由来する。二百余年の基業を一朝にして覆したのは、姦臣の佞言が国を誤らせた明白な証というべきで、悲しいことである。
番将除授職名
番将で職を授けられた者の名と官職。 - 高唐英 彰徳節度使 - 劉晞 西京留守 - 崔廷勳 大同節度使 - 耿崇美 昭義節度使 - 高模翰 河陽節度使 - 蕭海真 幽州節度使 - 潘聿撚 橫海節度使 - 楊姑 忻州節度使 - 留珪 義成節度使 - 楊兗 武定節度使
漢官除授職名
漢官で職を授けられた者の名と官職。 - 韓紹芳 同平章事 - 竇振 三司使 - 韓紹昇 宣徽南院事 - 耿元吉 戶部使 - 劉玄 兵部尚書・知上京留守 - 劉四端 禮部尚書・參知政事・簽書樞密院事 - 張克忠 守同司徒兼侍中・知樞密院事 - 韓紹雍 行宮都部署兼侍中