蕭翰――出自と太宗への従軍
- 蕭翰は契丹本国の人で、述律太后の兄の子にあたる。妹はのちに太宗の后となった。翰が初めて蕭を姓としたことから、以後契丹の后族はみな蕭氏を称するようになった。
- 翰は残忍な性格で騎射に長けていた。太宗が張敬達と交戦した際、翰らは東北から出撃して唐軍を分断し、唐軍は大敗、歩兵の戦死者は一万人に及んだ。
蕭翰――大梁での節度使就任と暴虐
- 太宗が南下して大梁に入った際、暑さのため長く留まれず、腹心の一人を節度使として残そうとした。百官が太后を迎え入れるよう求めると、太宗は「太后の一族は古柏の根のように大きく、動かせない」と答えた。また晋の百官をすべて随行させようとしたが人心を動揺させることを恐れ、職事のある者だけを従わせ、残りは大梁に留めた。汴州を宣武軍と改め、翰をその節度使とした。
- 滋德宮には宮人が五十余人おり、翰がこれを奪おうとしたところ、宦官の張環が渡さなかった。翰は鎖を破って宮人を奪い、環を捕らえて焼いた鉄で灼き、腹が爛れて死なせた。
蕭翰――許王從益の擁立
- 当初、翰は北漢高祖が兵を擁して南下すると聞き、北へ帰ろうとしたが、中国に主がなくては必ず大乱になり、自分が悠然と去れなくなることを恐れた。当時、唐の明宗の子である許王從益は王淑妃とともに洛陽におり、翰は高謨翰を遣わして二人を迎えさせ、太宗の命と偽って從益に南朝の軍国事を掌らせると称し、自分を恆州へ召し出させようとした。從益と淑妃は徽陵の下宮に隠れていたが、やむなく出て大梁に至った。翰は從益を帝に立て、諸酋長を率いてこれを拝させた。百官を立て、燕の兵千人を從益の宿衛として残し、翰は別れを告げて出発した。
- 翰が恆州に至ると、兵で張礪の邸を包囲した。麻荅が「大臣をみだりに殺してはならない」と諫めたため、これを中止した。
麻荅――経歴と暴虐
- 麻荅は太宗の従弟である。会同九年、契丹が黎陽を攻めた際、麻荅が先鋒となり、晋の博州刺史・周儒が城を挙げて降った。まもなく周儒は麻荅を導いて馬家口から黄河を渡らせ、東岸に陣を敷いて鄆州の北津を攻めた。
- また徳州を陥落させ、刺史の尹居璠を捕らえた。
- 太宗が南下して大梁に入ると、麻荅を安国節度使とし、また中京留守とした。
- 恆州に至ると、崔廷勳が麻荅に会い、走り寄って拝礼し、立ち上がって跪いて酒を献じたが、麻荅はあぐらをかいたまま受けた。
- 麻荅は貪欲で残忍、狡猾で酷薄であり、民間に珍しい財貨や美女があれば必ず奪い取った。また村民を捕らえて盗賊だと誣告し、顔を裂き目をえぐり手首を切り、焼き灼いて殺すことで民衆を威圧しようとした。常にその道具を身辺に置き、左右前後に人の肝や手足を懸け、飲食や起居をその間で行い、談笑も平然としていた。出入りには黄色の衣を着て天子の車馬・服御の物を用い、「これを漢人は不可というが、我が国には忌みはない」と言った。また宰相の員数が足りないとして、馮道に史館を、李崧に弘文館を、和凝に集賢院を、劉煦に中書を判じさせるなど、その僭越ぶりはこの通りであった。しかし契丹人が法を犯せば容赦しなかったため、市中は乱れなかった。常に漢人が逃げ去ることを恐れ、門番に「漢人が門を窺う者があれば、その首を斬って持ってこい」と命じていた。
麻荅――洺州の乱と敗走
- 麻荅が洺州に運搬の督促の使者を遣わすと、洺州防禦使の薛懷讓は漢の高祖が大梁に入ったと聞いてその使者を殺し、州を挙げて降った。高祖は兵一万人を遣わして懷讓に合流させ、邢州で劉鐸を攻めたが勝てなかった。鐸は麻荅に援兵を求め、麻荅はその将・楊安と前義武節度使・李殷に騎兵千を率いさせて洺州の懷讓を攻めさせた。懷讓は城に籠って自守し、楊安らは兵をほしいままにして邢州・洺州の境で大いに略奪した。
- 契丹が恆州に残した守備兵は千人に満たず、麻荅は担当官に一万四千人分の食糧を支給させ、余りを自分の懐に収めた。麻荅は常に漢兵を疑い、また役に立たないとして次第に廃止・縮小し、その食糧を減らして胡兵に食わせたため、衆心は怨み憤った。
- 漢兵は麻荅を攻めようと謀ったが、契丹がなお強いことを恐れ躊躇していた。折しも楊袞・楊安らの軍が出撃し、契丹が恆州に残した兵はわずか八百人となったため、何福進らはついに決断した。まもなく馮道・李崧が太宗の葬儀に召されると、漢兵は府中に突入して衙門を焼き、契丹と戦った。日が暮れる頃、村民数千人が城外で騒ぎ立て、北兵の財貨・婦女を奪おうとしたため、北兵は恐れて北へ逃げた。麻荅・劉晞・崔廷勳はみな定州に奔り、義武節度使の耶律忠と合流した。
- 漢に白再榮という者があり、人を捕らえて財を取り立てたため、恆州の人々は彼を「白麻荅」と呼んだ。その苛虐ぶりが知れよう。麻荅は帰国後、世宗によって毒殺された。
耶律郎五
- 耶律郎五、すなわち耶律忠は、国主の一族である。
- 太宗が南して石晋を攻めた際、郎五は御供として従い、たびたび戦功をあげた。太宗が大梁に入ると、郎五を鎮寧節度使とした。
- 郎五は残虐な性格で、澶州の人々はこれに苦しんだ。賊帥の王瓊がその徒千余人を率いて南城を襲い占拠し、北へ浮橋を渡って兵をほしいままに略奪し、郎五を牙城に包囲した。郎五は漢が鄴都の杜重威を平定したと聞き、常に華人が変を起こすことを恐れていた。まもなく郎五は麻荅らとともに定州を焼き払い、住民をことごとく駆り立てて城を捨てさせ北へ去った。周辺千里にわたり、掠奪しつくされた。
史論
- 陰山の異常な気は殺伐の運を集め、天運が巡って山河も色を変えた。太宗徳光は鉄馬を率いて中原に入り、翰らはそれぞれ軍を分けて遠征した。しかし欲は谷のように満たされず、掠奪は極まりなく凶暴を極め、忠臣は胸に鬱憤を抱き、民は肝脳を血にまみれさせた。まことに深く悲しむべきことである。