契丹國志卷十八 帝紀(天慶九年以降) 天祚皇帝

天祚皇帝の治世後半。金軍の攻勢で上京・中京が相次いで陥落し、蕭奉先の専横のもと晉王が誅殺されるなど内紛も進み、燕王耶律淳が燕京で即位(天錫皇帝)するも病没、遼は事実上分裂した。

年表(8件)
  • 天慶九年1119年金軍が上京路を陥し祖州・懷州など祖宗の諸陵を焼き払った
  • 保大元年1121年蕭奉先の讒言により文妃が死を賜り晉王を除く動きが強まった
  • 保大二年1122年金軍が中京を陥し、蕭奉先は晉王に死を賜った
  • 保大二年1122年天祚は雲中を経て夾山に逃れ、蕭奉先は逃走途上で殺された
  • 保大二年1122年燕王淳が擁立され天錫皇帝を称し建福と改元した
  • 保大二年1122年燕王淳が病没し、諡は宣宗、嗣子はなかった
  • 保大二年1122年蕭后が即位し徳興と改元、天祚の子秦王を迎え帝とすることを議した
  • 保大二年1122年金軍が燕京に迫り、蕭后は金に藩を称するも許されなかった

天慶九年(1119年)――上京路の陥落と諸陵の被害

  • 春、赤色の光が大きく三、四団、長さ二、三丈のものが現れ、索索として樹のようであった。西方には火のような光が五団現れ、下方十余丈まで及んだが地には至らず消えた。
  • 夏、金人が上京路を攻め陥した。祖州は太祖の天膳堂、懷州は太宗德光の崇元殿、慶州は望僊・望聖・神儀の三殿があり、さきに破られた乾・顯等の州には凝神殿・安元聖母殿、木葉山には世祖殿、諸陵と皇妃子弟の影堂があったが、これらはことごとく焼き払われ、金銀珠玉を発掘された。担当官はこれを上聞したが、蕭奉先はすべて抑えて奏上しなかった。後に天祚が知り陵寝の事を問うと、奉先は「はじめは元宮を侵犯し諸物を略奪したが、なお列聖の威霊を恐れて霊柩は毀していない。すでに担当官に修葺・巡護を指揮した」と答えた。奉先が事実を偽って迎合するさまは類ってこの通りであった。
  • 遼国はたびたびの用兵で困窮しており、各州の富民の子弟で自ら軍馬を進んで供出する者、人ごとに銭三千貫を献じる者には特に進士出身を補した。諸番部の富人が軍を進め馬を献じ粟を納めた者にも出身を与えるなど官の等級には差があった。また燕王の言により遼東の生業を失った飢民が道に困窮し十のうち八、九が死んでいるとの実状から、中京・燕・雲・平の三路の諸色人に収養させ、翌年等第に応じて恩を推す旨の詔が出された。官爵の乱れはここに極まった。
  • 四月朔、日食。

天慶十年(1120年)

  • 冬十月朔、日食。

保大元年(1121年)――怨軍の内訌と晉王をめぐる政変の兆し

  • 春、日に眚(異変)があり、たちまち青黒く光を失い、その中が洶々と動いて金を鎔かして湧くようであった。日の傍らには青黒い色があり、水波が周回して旋転するようで、日暮れになってようやく止んだ。
  • 金人は上京を破って以来、一年間遼国に兵を出さなかったが、防備の屯は従来通りであった。東南路の怨軍将領の董小醜は利州の賊を討伐する際に逗留し進まなかった罪で誅された。その部隊長の羅青漢・董仲孫らは怨軍を率いて乱を起こし、錦州を攻めたが月余りも落とせず、都統の耶律余覩の援兵が到着し怨軍はようやく懼れた。郭藥師らは内変を起こし、みずから賊魁の羅青漢ら数人を殺して招安に応じた。都統の蕭幹は選んで留めた二千人を四営とし、郭藥師・張令徽・劉舜仁・甄五臣をそれぞれ統将に抜擢し、残り六千人はすべて燕・雲・平の三路に送って禁軍に充てるか養済させ、実際にはその勢力を分散させる意図であった。
  • 耶律余覩は蕭幹に「前年両営が叛き乾州を掠めた際もすでに招安に従わせたが、今年は全軍が再び叛き錦州を攻めた。もし我が軍が来なければ城は破れ数万の民が害を被っただろう。いわゆる怨軍は金人に怨みを報いることもできず、しばしば我が方に怨み叛くばかりだ。今、彼らが武装を解いた隙に兵を遣わして皆殺しにすれば永く後患を絶てる」と述べたが、蕭幹は「忠義の心からやむを得ず従った者もいる。どうしてすべて誅せようか」と答え、二人の議論は合わなかったが、結局蕭幹の議に従った。
  • 遼は金人の侵犯以来天下の郡県のほぼ半分を失い、生霊は塗炭に苦しみ宗廟は丘墟となった。それでも天祚はなお四季の遊猟を楽しみとし、その作業の費えを少しも止めなかったため、内外の人心を失い、万機に倦む様子さえ見せていた。
  • 天祚には四子があった。長は趙王(昭容所出)、次は晉王(文妃所出)、次は秦王・魯王(ともに元妃所出)である。国人は皆晉王が賢であると知りこれに期待を寄せていた。元妃の兄で樞密使の蕭奉先は秦王が立てられないことを恐れ、ひそかに晉王を除こうと図ったが、まだ機会がなかった。
  • 晉王の母文妃には姉妹が三人おり、長姉は耶律撻曷里に、次姉は余覩に嫁いでいた。撻曷里の妻が余覩の家を訪ねたことがあり、蕭奉先はひそかに人を遣わして彼女が余覩と結び晉王を立て天祚を太上皇帝に奉ろうとしていると誣告させた。事が発覚すると撻曷里の妻らは皆誅殺され、文妃も死を賜ったが、晉王だけは留められた。
  • この時余覩は軍中にあり、これを聞いて懼れ、ただちに千余騎と骨肉・車帳を率いて金国へ叛き帰った。折しも盛夏で、途中で霖雨に阻まれた。天祚は知奚王府の蕭遐買、宰相の蕭德恭、太常袞の耶律諦里姑、歸州觀察使の蕭和尚奴、太師の蕭幹にそれぞれ本部の軍馬を率いさせて合流し追わせ、閭山縣で追いつくと、諸軍は「今、天祚は奉先を信用し晉王の禍を招いた。しかも奉先は平素から我々を蔑ろに扱ってきた。余覩は宗室の豪俊で人の下に立たぬ気概の持ち主だ。もし余覩を捕らえれば、いずれ我々も同じ目に遭うだろう。捕らえずに逃がす方が得策だ」と議し、皆「よし」と応じて「追いついたが及ばなかった」と偽って報告した。余覩が逃げおおせると、奉先は諸将が皆叛くのを恐れ、蕭遐買らに爵賞を厚く与えてその心を慰めた。

保大二年(1122年)――中京の陥落と燕王淳の即位、天祚の播遷

  • 春、金人が中京を陥した。これより先、金主阿骨打は使者の曷魯らを宋に遣わし海路から帰った際、宋朝がすでに国交を絶ったとの書を得て、弟の故碖国相孛極烈と粘罕・兀室に命じ、遼の降人である余覩を前鋒として奚西より平地松林を過ぎ白水に駐屯させ、別に精兵五百騎を松亭関に遣わして本京の官民の逃走する車乗を邀截させた。
  • 天祚は燕京にあってこの報を聞き大いに懼れ、即日居庸関を出た。さらに余覩が前鋒となり兵を導いて迫っていると聞くと、蕭奉先は「余覩は宗枝であり、どうして遼を滅ぼそうとするものか。ただ甥の晉王を立てたいだけであろう。子一人を惜しんでその奸謀を伐てないでよいものか」と奏し、ついに晉王に死を賜った。晉王は賢で人望があったが罪なくして死んだため、行闕の百官・諸軍はこれを聞いて涙を流さぬ者はなく、人心はますます離れた。
  • 三月、余覩の兵が至るとの報を受け、天祚は騎兵五千を率いて西の雲中府へ奔り、宰相の張琳・李處溫らを留めて燕王とともに燕を守らせた。天祚が出発する時、衞士五千は途中でほとんど潰散し、諸王および長公主・駙馬・諸子弟三百余騎だけが残った。雲中の城下を過ぎる際、留守の蕭查刺、轉運の劉企常らを「金兵は遠くない。軍民とともに城を守るように」と慰撫し、ただ馬三千匹を取り、天德軍から漁陽へ趣き夾山に入った。その際、蕭奉先に「私をここまで至らせたのはすべてお前のせいだ。急ぎ去れ、人はお前を許すまい」と告げた。奉先は慟哭して辞去し、二十里ほど行ったところで左右の者に殺された。
  • 金兵が雲中に至ると、蕭查剌らは軍民父老を率いて門を開いて降った。金主阿骨打は精兵二百騎を留めて留守の自衞とし、天祚を追ってほぼ追いつくところまで迫った。行宮の内庫三局の珍宝は祖宗二百余年の蓄えであったが、幼女とともにことごとく奪われた。
  • 金兵が天祚を追って旬日戻らなかった間に府中で兵変が起き、馬權・韓執謙が推されて都統となり、蕭查剌らと衞兵を逐い出して門を閉じて拒守し、燕王に急報して救援を求めた。しかし燕王は僭位したばかりで遣わす兵がなく、蔚州に発兵させ応援させるにとどまった。金兵は天祚を追って戻り城下に至ると留守らが逐い出されたのを見て軍民を督して攻城し、旬を越えて城を破り、馬權・韓執謙らを捕らえ諸軍をことごとく殺し、朔・應の諸州を陥し、羣牧の良馬三万匹を奪い去った。
  • 天祚が夾山へ奔って以来、命令は通じなくなった。燕王は燕を守り深く人心を得ていた。李處溫とその族弟の處能・子の奭、都統の蕭幹は怨軍を擁して燕王を立てようと謀り、府にいる百官・諸軍・僧道・父老数万人に告げ、三月十七日に燕王府へ詣で、あわせて張琳を招いてこの事を告げた。琳は「摂政ならばよいが、すぐに即位するのはよくない」と言ったが、處溫は「天意と人心はすでに定まった。どうして変えられようか」と述べ、百官が班に立ち並ぶ中、琳だけが難色を示した。
  • ほどなく燕王が出てくると、李奭が赭袍をその身に被せ、百官・軍民は拝舞して山呼した。王は驚き泣いて辞退したが免れられず即位し、天錫皇帝を僭称し建福と改元した。怨軍を常勝軍と改め、李處溫を太尉、左企弓を司徒、曹勇義に知樞密院、虞仲文に知參政をそれぞれ任じた。張琳は太師として十日に一度朝し、平章軍國大事のほかは元老として尊ばれたが、実際には自分より上位に置かれることを望まれなかった。李處能・奭ら数十人はそれぞれ定策の功で官を授けられた。
  • 赦を議していたところ燕中の父老が再び訴え出て、随駕の內庫都點檢の劉彥良は姦佞の人物で天祚を様々な失徳の行いに導き、国人は「肉拄杖」(寄り縋る杖の意)と呼んでいた。その妻の雲奇はもと娼婦で日夜禁中に出入りし諧謔を演じていた。夫婦ともに国の害となっていたため、まず誅してから赦を行うよう求められた。その日、彥良夫婦の首は市に梟され、人々は争ってその肉を食らい、その後赦が行われた。
  • 燕王は天祚を廃して湘陰王とし、詔を下した。その大意は次の通りである。大道が隠れ揖遜の風が行われない今、皇天は私せずおのずから廃興の数がある。事は成し遂げてこそ貴く人には力の及ばぬこともある。朕は幼くして青宮を守り長じて朱邸に帰った。人情から久しく係累があるとはいえ、神器を求めたわけではなく、周公の嫌を避けようとし季札の節も忘れていない。しかし主なき事態を前に四海が君を求め、推戴の声・謳歌の声が至るところに集まったため、祖宗の業を墜とすまいと帝王の権を勉めて執ることとなったが、簒奪と難ぜられることを実に懼れ、なお復辟の機会を待とうと思っていた。近ごろ群臣の奏で前主の非がるる述べられた――諫を拒み能を誇り、頑迷で徳を棄て、行動が定まらず平生語るべき言葉もなく、家財は費やし尽くされてなお淫費に頼り、宗廟の衣冠は毀されてもなお常に狩猟をやめず、無実の者を戮するに名分なく、伋の妻のような乱れは忍びがたい。加えて権臣が壅塞し政事は乱れ、左右は心を離し遠近は解体し、悔い改めることなく播遷に至った。この憂いは自ら招いたもので大勢はすでに去った。これは四海の望みを裏切ったということであり、どうして一人の帝号に恋々としていられよう。よろしく徽名を削り不徳を明らかにすべきである。朕の心は情に引かれてなお従いがたいが、群議の大公に応じてまさにこの請いを受け入れる。故事に循い新たな封を降し、湘陰王に降封する。命は常ならず、事はやむを得ぬこと、朕がどうしてみだりに位号の尊きを専らにできようか。ただ衆心に従い社稷のための計とするのみである。聞く者は皆この心を体してほしい。
  • 燕王は帝を称して後、燕・雲・平・中京・上京・遼西の六路をわがものとしたが、沙漠以北の西南面・西北路招討府の諸番部族は天祚が主宰し、なお保大二年と称していた。遼国はこれより分裂した。
  • 夏四月、燕王は知宣徽南院事の蕭撻勃也、樞密副承旨の王居元を告謝使として宋に遣わしたが、白溝に至り宋の徽宗の降旨を待つうち、天祚がなお夾山にいることから燕王が擅に即位したのはおかしいとされ、雄州はこれを退け使者は帰った。
  • この時、宋は太師の童貫を宣撫使とし蔡攸を副えて兵十五万を勒し辺境を巡らせ、燕・雲の故地を回復する詔を下し、童貫に三策を授けた――燕人が悦んで従いこれによって旧疆を回復するのが上策、燕王が款を納れ藩を称するのが次策、燕人がなお服さなければ兵を按じて辺を巡るのが下策である。童貫は張寶・趙忠に書を持たせ燕王を諭させ、挙国して内附すれば恩賞は加えられるとし、書には「呉越の錢俶・西蜀の孟昶らが宋朝に帰した後、世々子孫は富貴を失っていない。まして遼と宋は百年友好を保ってきた。誠に挙国して内附すれば恩数は加えられよう。もし執迷を懐けば時を失し、彭寵の禍が帳中から起こることになりかねない」とあった。燕王淳は書を得るとその二使を斬った。また趙翊に使者を遣わし易州の土豪史成に挙兵して城を献じるよう説かせたが、史成に捕らえられ燕京に送られて斬られた。
  • 五月、童貫は再び种師道らに数万の兵を率いさせ国境に迫り罪を問わせた。まず閣門宣贊の馬擴に宋の徽宗の手詔を持たせ燕王を撫諭し、国土を返還すれば世々王爵を失わせないと告げ、あわせて燕の民にも存恤の意を示させた。王は従わなかったが心中は懼れていた。馬擴が白溝を過ぎた際、漢児の劉宗吉という者がひそかに出て会い、涿州の城門を開いて献じることを約したため、擴は二つの榜を渡した。
  • この時、宋軍は次第に集結し、种師道は東路の軍を総べて白溝に屯し、王稟が前軍、楊惟忠が左軍、种師中が右軍、王玶が後軍、趙明・楊志が選鋒軍を率いた。辛興宗は西路の軍を総べて范村に屯し、楊可世・王淵が前軍、焦安節が左軍、劉光世・冀景が右軍、曲奇・王育が後軍、吳子厚・劉安が選鋒軍を率い、いずれも劉延慶の節制に従った。劉韐・宇文黃中を参謀、鄧珪・鄧琯を廉訪とした。
  • 六月、童貫は高陽関に至って駐軍し、知雄州の和詵の計を用いて黃榜と旗を降し、民を弔い罪を伐つのはやむを得ぬためであると述べ、殺人した者は軍法に従わせると告げ、豪傑で燕京を献じる者があれば節度使に取り立てるとした。
  • 燕王は大石林牙に一千五百余騎を率いさせ涿州の新城に屯させた。林牙は「両国は盟好を結んでいるのになぜ兵を興すのか。信使であるならなぜ劉宗吉と結んで城を献じさせようとするのか」と詰問した。馬擴は「女真兵はすでに山後に至っている。本朝はまさに燕を救うために兵を遣わしただけだ。劉宗吉が投じてきたのを納れないわけにはいかない」と答えた。林牙は「本来は宣贊を留めておきたいところだが、これまでの通好の縁で甚だしいことはしたくない。和を欲するなら和し、戦を欲するなら戦おう。大暑の折、諸軍をいたずらに苦しめることのないように」と述べ、馬に乗って去った。
  • 前軍統制の楊可世は和詵の言を信じ、燕人が久しく内附を望んでいるのだから簞食で迎えられるはずと考え、軽騎数千を率いて国境を越え蘭溝甸へ向かった。先に人を遣わし旗榜を渡河橋で示させたところ、林牙はこれを見て「死あるのみ」と応じ、可世はこれに掩われて傷を負い退いた。燕王は兵二万を増し蕭幹に統率させ白溝を渡ろうとし、宋の諸将は皆迎え撃とうとしたが种師道は「みだりに動くな」と抑え、まもなく兵を退いた。
  • 蕭幹は范村で激しく戦い、辛興宗は楊可弼を遣わし救援させ自ら督戦したため蕭幹はようやく退いた。両軍は白溝河に十二日駐まった末、宋軍は師を返し雄州に退いた。その日北風が吹き大雨雹が降り、追撃の騎兵が大挙して至り盟を破ったと罵った。雄州に退いた後、童貫はなお兵勢が盛んで取るべきでないと考え、探報が正確でなかったにもかかわらず出兵を求めたとして和詵・侯益に責を帰した。ほどなく徽宗の班師の詔が下った。
  • 燕王が僭号した当初、漢軍が多く番軍が少なかったため、蕭幹は東・西の奚二千余人および嶺外の南北大王・乙室王・皮室猛拽刺司を籍して軍とすることを建議した。金人の侵寇に遭った遼の民は山谷や沙漠に逃げ込んでいたが、燕王の即位を聞いて皆内向したものの、人馬とも飢えがひどく遠くまで来られないため州県に招かせ万余戸を得た。戸ごとに一人を選んで軍とし家に三十貫を支給し「瘦軍」と呼んだ。しかし涿・易の間に散在し民を侵掠すること盗賊よりひどく、主兵の官も見て見ぬふりをした。後に常勝軍が南朝に叛帰した際、まず涿州の瘦軍の家族を殺してこれを正罪とし人心を取ろうとした。
  • この月、燕王は病に伏し、天祚が夾山から天德軍・雲內・朔・武・應・蔚等の州に檄を伝え、すでに諸番の精兵五万騎を集め秋八月に燕に入ると約したと聞いた。天祚は近侍の小底查剌を馳せさせ燕王を見舞い衣裘・茗薬を求めさせた。王は大いに懼れ、南北の大臣を集めて議し、李處溫・蕭幹らは秦王を迎えて湘陰王(天祚)を拒むべきだとし、百官に共に議させ賛同する者を東に立たせた。ただ南面諸行都部署の耶律寧だけが西に立ち「天祚が果たして復興できるなら拒む理由はない。子が父を迎えて拒むというのも道理に合わない」と述べた。處溫は寧が衆を動揺させると考え誅そうとしたが、燕王淳は枕を撫でて嘆じ「これは忠臣だ。天祚が果たして来るなら私は死あるのみ、何と言って会おうか」と言った。
  • 天祚の兵は漁陽を出て朔・應等の州を回復したが、再び金に敗れ元妃・諸王を虜にされた。天祚は再び夾山へ奔った。二十四日、燕王淳が薨じた。諡は宣宗、嗣子はなかった。

燕王淳没後の混乱――蕭后の即位と李處溫父子の誅殺

  • 李處溫はその子の奭がもとより宋の趙良嗣と親しかったため、童貫は良嗣に書を持たせ内応を約させ、牒を募る者を投じさせ、あわせて馬柔吉らとも通じて義士を結ばせ門を開いて降を迎えさせ、虜酋を捕らえて「帰朝して虜を滅ぼす」というかつての約束を果たそうとした。處溫もまた奭にひそかに帛書を贈答させていた。
  • 燕王淳は病に臥した際、必ず死ぬと知り處溫に都元帥を授け身後の事を託そうとした。病が篤くなると蕭幹と大石林牙は宰相たちに侍疾するよう命を偽って伝えたが、處溫だけは来ず、ひそかに武勇軍二千を集めて備え、「密旨を奉じて他の変事に備える」と偽っていた。その夜燕王淳は死んだが喪は発しなかった。蕭幹らはまず遼騎三千を毬場に集め百官を会し、燕王の妻蕭氏を皇太后に立て軍国事を権に主らせ、天祚の次子秦王を迎えて帝とすることを議した。この議に従った者は名を書き署名し、異を唱える者はいなかった。蕭氏はついに柩の前で即位し德興と改元した。
  • 蕭后は燕王秦国妃であった。妃の兄弟は章奴の乱に連座して誅され、天祚は蕭后を上京に幽閉し、女真が破った後に出られたが、また中京に幽閉され、燕王淳の即位により帰ることができた。后は蕭幹が擁立の功があったことから于越王に封じた。天祚は淳の死を聞くとその官爵を削る詔を下し、妻の蕭氏も庶人に降し虺氏と改姓させた。
  • 后が即位した際、李處溫だけが遅れて祝賀に来た。多難の折でもありすぐに誅すことはせず罪を赦したが、元帥の宣劄を追って毀すのみとした。弟の處能は禍が自分に及ぶことを懼れ剃髪して僧となり、蕭后は海島の龍雲寺へ送った。
  • ある者が處溫父子はひそかに童貫と通じて蕭后を挟んで宋朝に帰ろうとしていると告げた。后がこれを問うと、處溫は「臣父子は宣宗(淳)に定策の功があり、数代にわたって赦されてしかるべきで、讒言で罪を得るべきではない」と述べたが、太后は「かつて燕王が周公のようであれば、後世に親賢の重き名を享けたはずだ。それはかえって太寧王述軋・楚國王湼里に勝るものではなかったか。燕王を誤らせたのはすべてお前たち父子だ」と述べ、あわせて他の罪数十条を数え上げた。處溫は答えられず死を賜り、子の奭は凌遲処斬された。その家財を没収したところ現銭十万余貫、金銀珠玉も同程度あり、いずれも数ヶ月の宰相在任中に四方から公然と受け取った賄賂であった。
  • はじめ處溫は天祚が播遷したと聞くと燕王に僭号を勧めて恩幸を図ったが、燕王の死後は遼国が滅びると恐れ、拠り所を失うことを恐れて北は金国に通じ南は童貫に結び、蕭后を挟んで国土を宋に納めようとした。いずれも至誠からではなく自身の保身を図ったものであったが、かえってこれが身を滅ぼす禍となった。後に宋軍が燕山を平定した際、處溫を追封して廣陽郡王とし、子の李奭を保寧軍節度使とし、その家を廟とし、孫一人を録用した。

金軍の南下と燕京の陥落

  • 八月、金主は中京へ向かった。道中、天祚が国崖に兵を集めていると聞き急ぎ攻め、大戦の末に都統の蕭規を生擒し、天祚は身一つで脱出した。夏国も兵数万を率いて天德軍を襲ったが、金主は偏将に兵七千を率いさせこれを撃破した。折しも秋の霖雨が激しく襲い、夏人は溺死する者が数え切れなかった。金主はしばしば勝ちを収め兵は驕り、秋の収穫に乗じて辺境で馬を牧し兵を休め、奉聖州の東に屯した。
  • 燕王淳の死後、蕭后が専政を執ると、遼は漢人が南軍に応じることを恐れこれを謀ろうとしたため、常勝軍を管する郭藥師は使者を遣わし表を奉じて宋に降り、高鳳も易州を挙げて降った。時に宋の童貫は雄州に戻る途中であったが、郭藥師が到着したため兵八千を授け易州の義兵五千とあわせ劉延慶に隷属させ嚮導とし、軍勢は大いに振るった。
  • 九月、蕭后は蕭容・韓昉を宋に遣わし表を奉じて藩を称した。
  • 冬十月、宋の劉延慶・郭藥師らは雄州から新城へ向かい、劉光世・楊可世は安肅軍から易州へ出て涿州で合流した。時に兵衆五十万で燕を攻め盧溝河に進駐した。時に燕軍の蕭幹も燕城の十里外に塁を築いて対峙した。郭藥師は延慶に常勝軍五千騎を選ばせ間道で燕を襲わせ、夜半に河を渡り枚を銜んで進み、明け方に常勝軍五千騎は郷人を交えて迎春門を奪って城内に入った。大軍が続いて燕城に至り、人を遣わして蕭后に降を諭させた。蕭幹は宋軍が燕に入ったと知り急ぎ救援に向かい、人々は皆死戦したため郭藥師はしばしば敗れ、門から出られず馬をすべて棄てて城を縋り下り、死傷は半数を越え、生還した者はわずか数百騎にすぎなかった。
  • 時に宋軍で盧溝河に屯していた者はまだ動いておらず、蕭幹の兵はわずか数千であったが、漢児二人を捕らえ帳中に留め、夜半に偽って「漢兵十万と聞くが我が軍はその三倍。左右両翼に分かれ精兵で中軍を衝き火を挙げて呼応すれば、残らず殲滅できる」と語り合わせ、ひそかにその一人を逃がして報じさせた。その夕、蕭幹軍は逃走し、宋の衆軍はついに潰えて自ら踏み合った。蕭幹は騎兵を遣わし涿水の北まで追わせて戻った。
  • 十二月、金の粘罕は南暗口へ、撻懶駙馬は古北口へ、金主は居庸関へと、三路に分かれて燕に入った。蕭后はすでに敗れ、金に表を奉じ藩を称し和を請うたが、金主はこれを許さず、媯・儒の二州から進兵し居庸関に迫った。遼人は関を棄てて逃げた。