契丹國志卷十七 帝紀 天祚皇帝

天祚皇帝(諱延禧、道宗の孫、秦王元吉の子)。即位後放埓に流れ女真の阿骨打の台頭を招き、寧江州陥落など緒戦で連敗、東京占拠(高永昌の乱)にも見舞われた。晩年は阿骨打からの冊封要求にも応じきれず遼の衰退が進んだ。

年表(8件)

出自と生い立ち

  • 帝、諱は延禧。道宗の孫で秦王元吉の子。母は木拙氏。はじめ齊王に封ぜられ、のち皇太孫となった。道宗が崩じると齊王が即位し、自ら天祚皇帝と号し、乾統と改元した。

乾統元年(1101年)

  • 春正月朔、流星が地を照らし西南から尾宿に入り距星に達した。その夕、赤気が東北方に起こり西方まで亘り、中に白気が出て、二気が散ろうとするところにさらに黒気が傍らに現れた。
  • 夏四月朔、日食、陰雲のため見えず。
  • この年、女真の楊割が死に、子の阿骨打が立った。

乾統二年(1102年)

  • 特に記載なし。

乾統三年(1103年)

  • 特に記載なし。

乾統四年(1104年)

  • 特に記載なし。

乾統五年(1105年)

  • 夏四月、遼は簽書樞密院の蕭良を宋に遣わし、朝廷が夏国に出兵し侵していることを言わせ、大遼は帝の妹を夏国主に嫁がせているとして、侵した地を返すよう求めた。
  • 五月、宋の徽宗は龍圖閣直學士の林攄を報聘に遣わし、天祚に会って国書を跪いて上げ、仰いで「夏人がたびたび辺境を侵すので朝廷は師を興して罪を問うたが、北朝がたびたび講和の使いを遣わしているため容認に努めてきた。しかし年を越えても誓表を進めず、天寧節を賀う使いも遣わさず、さらに虎徑嶺・馬練川の両堡を築いて侵寇をやめない。北朝がこれを厳しく問わなければ、勧和の意に背くことになりかねない」と述べた。天祚は不意を突かれて愕然とした。
  • 秋八月、天祚は林攄の来使が情に外れたと考え、使者を遣わして返答させ、宋はほどなく禮部侍郎の劉正夫を遣わして報い、応対は敏捷で議論はいずれも約束通りとなった。

乾統六年(1106年)――宋崇寧五年

  • 春正月、彗星が西方に出現、長さは天を覆うほどであった。
  • 三月、遼は再び泛使の同平章事蕭保先・牛溫舒を宋に遣わし、夏国のために元符年間の講和以後に侵した西界の地を求めた。徽宗は「先帝がすでに封疆を定めており、いま再び議することはできない。ただし崇寧以来侵した地であれば与えてもよい」と述べた。

乾統七年(1107年)

  • 冬十一月朔、日食。

乾統八年(1108年)

  • 特に記載なし。

乾統九年(1109年)

  • 特に記載なし。

乾統十年(1110年)

  • 秋九月朔、日食。

天慶元年(1111年)――童貫の使遼と馬植の投宋

  • 秋九月、宋は鄭允中・童貫を遼に使いさせた。童貫が至ると遼の君臣は集まって指さし笑い、「南朝の人材はこの程度か」と言った。しかし天祚はこの頃放埓を極め、中国の玉帛珍玩を貪り求めており、童貫が持参した品はすべて極めて珍奇なもので、両浙の髹藤の器具や火閣・書櫃・床椅などまで運んで献じた。天祚が童貫に贈った品もこれに見合うものであった。
  • 童貫が帰る途中、盧溝河に至った際、燕の人馬植という者が燕で罪を得て童貫に会い、燕を滅ぼす策を陳べた。童貫はこれを連れ帰り宋にて姓を趙、名を良嗣と改めさせ朝廷に薦めた。後に天祚がたびたび檄を移して引き渡しを求めたが、童貫はこれを隠して渡さなかった。燕を回復する議論はここに始まったとされる。

天慶二年(1112年)――混同江の頭魚の宴と阿骨打

  • 春、天祚は混同江に釣魚に赴いた。国境外の生女真の酋長で千里以内にいる者は、旧例によりみな集まった。ちょうど頭魚酒筵に当たり、特別に宴を設けてもてなし、酒がほろ酔いになると天祚は軒に臨み、諸酋長に順に歌舞させて楽しんだ。阿骨打の番になると、端座してまっすぐ見つめ、できないと辞退し、再三諭されても最後まで従わなかった。
  • 天祚はひそかに樞密使の蕭奉先に「阿骨打の意気は雄豪で、様子が尋常でない。事を起こす前に誅すべきだ。さもなければ後患となろう」と語ったが、奉先は「阿骨打は誠に本朝に服しており、殺せば向化の心を傷つける。もし異心があったとしても、蕞爾たる小国に何ができようか」と答えた。
  • 阿骨打の弟・甥にあたる吳乞馬・粘罕・胡舍らは、天祚が毎年秋山に入る際に随行し、鹿鳴を巧みに真似て鹿を呼び、天祚がこれを射たり、あるいは虎を刺し熊を搏ったりして仕えた。天祚は喜んでたびたび官爵を加え、のちに圍場司の差遣を受ける者もいた。
  • 阿骨打は頭魚の宴から帰ると、天祚が自分の意図に気づいたのではと疑い、兵を起こそうとした。この年の秋、近隣の諸部族を併呑し、趙三・阿鶻產大王という者が従わずに拒んだため、阿骨打はその家族を捕らえた。二人は咸州詳穩司に訴え、北樞密院に送られたが、樞密使の蕭奉先はもとより外戚出身の凡才で、事が大きくなるのを恐れ、ただの日常事として奏上した。天祚は咸州で取り調べて改心させるよう指揮したが、阿骨打はついに病と称して出頭しなかった。

天慶三年(1113年)

  • 春三月朔、日食。
  • 阿骨打は五百余騎を率いて咸州詳穩司へ直接赴き、吏民は驚き騒いだ。翌日、騎を連ねて衙門へ出向いて尋問を受け、告発者の趙三・阿鶻產らと共に庁下で跪いて問われたが、阿骨打は言を左右にして服さず、担当官庁へ申し送るよう求めた。ある夜、従騎を率いて帰り、人を遣わして詳穩司に「殺そうとしているようなので留まれない」との書状を届けさせた。以後は召喚に応じなくなり、順に北樞密院へ申し送られるのみで、遼国もどうすることもできなかった。

天慶四年(1114年)――寧江州の陥落

  • 秋八月、女真の阿骨打がついに叛き、粘罕・胡舍を謀主とし、銀朮割・移列・婁宿・闍母らを将帥として、女真諸部の甲馬二千を集め、まず混同江の東、名を寧江州という地を攻めた。天祚はちょうど慶州の秋山で鹿を射ていたが、これを聞いても意に介さず、海州刺史の高仙壽に渤海の子弟軍三千を統率させ、寧江州の救援に向かわせた。
  • 秋九月、遼兵は寧江州の東で女真と遭遇し数度戦ったが、渤海軍は大敗し、あるいは陣没しあるいは捕らえられ、免れた者はごくわずかであった。女真は寧江州を攻め破り、老若を問わずことごとく殺した。
  • 女真は大遼に二百余年服属し、節度使を世襲し兄弟で相伝えてきた。天祚朝に至って賞罰が乱れ、色を貪り酒に溺れる政が続いた。女真の東北は五国と隣り合い、五国の東は大海に至り、名鷹を産する。海東から来るものを「海東青」といい、小さく俊敏で鵝や鶩を捕えることができ、爪の白いものは特に珍重された。遼人はこれを酷愛し、毎年女真に求め、女真は五国まで赴き戦って手に入れねばならず、この負担に苦しんでいた。天祚が即位してからは貢の取り立てがことに厳しく、また使者が至るたびに部落へ様々な要求をし、少しでも命に従わなければ長を杖打ち、甚だしきは誅殺したため、諸部は怨み叛き、ひそかに阿骨打と結び、ここに兵を挙げて謀反するに至った。
  • これより先、州に榷場があり、女真は北珠・人参・生金・松実・白附子・蜜蠟・麻布の類を交易していたが、州の人はその価を安く抑え辱めることを「打女真」と呼んでいた。州が陥落すると、女真は一人残らず殺し、遼兵の甲馬三千を得て、長白山の阿朮火(女真の居住地、河の名にちなむ)に退いて守った。
  • この月、天祚は秋山を出て顯州の冬山に鹿を射に赴いていたが、寧江州陥落の報を聞いて中止した。
  • 十月、守司空・殿前都檢點の蕭嗣先を東北路都統に任じ、靜江軍節度使の蕭撻勃也を副えて、契丹・奚兵三千騎、中京路禁軍・土豪二千人、諸路より選んだ武勇二千余人を発し、中京虞侯の崔公義を都押官、侍衞控鶴都指揮使・商州刺史の邢穎を副えて出河店に屯し、白江に臨んで寧江の女真と対陣させた。当時遼国は太平が久しく、女真挙兵の報を聞いても皆賞を望んで従軍を願い、しばしば家族を連れて軍営に随行した。
  • この月、女真はひそかに混同江を渡り、備えのない遼軍を陣も組まぬうちに撃った。蕭嗣先の軍は潰え、その家族・金帛・牛羊・輜械はことごとく女真に奪われた。さらに百余里追撃されて殺され、管押官の崔公義・邢穎らも戦死し、甲馬三千も奪われた。
  • 女真の叛乱にあたり、軍はみな騎兵であった。旗幟のほかに各人が字号を記した小木牌を人馬に付け、五十人を一隊とした。前の二十人は全装重甲で鎗や棍棒を持ち、後の三十人は軽甲で弓矢を操った。敵に遭うたびに一、二人が馬を躍らせ出て陣の虚実を見定め、左右前後から陣を結んで馳せ撃ち、百歩の外から弓矢を一斉に放てば当たらないことはなかった。勝てば陣を整えて追撃し、敗れれば再び集まって散らなかった。その分合出入りは神のごとく応変で、人々が皆自ら戦う気概を持っていたため勝てたのである。
  • 遼国の旧例では軍国の大事に漢人は関わらないことになっていたが、天祚は二度の敗戦を経て、蕭奉先は兵を知らないと考え、将帥を改めて東征の事を任せようとした。天祚は宰相の張琳・吳庸を召し東征を委ねた。張琳らは凡庸な儒生で経世の才がなく、統御の法もないまま「先の敗北は軽々しく動いたためで、漢軍二十万を用い分道進討すれば克てないことはない」と奏した。天祚はその数が多すぎると考え十万を差し引き、上京・長春・遼西の諸路に、戸ごとの家業銭を計算し三百貫ごとに一軍を自弁させる旨の宣劄を下し、二十日以内に集まるよう限った。富民には百軍・二百軍を出す者もあり家財が尽きた。張琳らは将帥の器ではなく武具も勝手に任せたため、人々は間に合わせに槍刀や氈甲を用いる有様で、弓弩・鉄甲は百に一、二もなかった。番軍を交え四路に分かれた。北樞密副使の耶律斡離朵は淶流河路都統となり衞尉卿の蘇壽吉が副え、耶律寧は黃龍府路都統となり桂州觀察使の耿欽が副え、復州節度使の蕭湜曷は咸州都統となり將作監の龔誼が副え、左祗候郎君詳穩の蕭阿古好は草峪都統となり商州團練使の張維協が副えた。淶流河の一路だけが女真の地深く進んだ。
  • 初戦でやや退き各自寨柵を守った。その夕、都統の斡離朵は漢軍がすでに逃げたと誤り聞き、遼・奚の兵を離れ陣営を捨てて逃げた。翌朝、漢軍にはなお三万余が残っており、將作少監の武朝彥を都統に推して再び女真と交戦したが、大敗を喫した。他の三路もこれを聞いて各々本路の防城に退き守った。数ヶ月のうちに女真に攻め落とされ、丁壮は残らず斬られ、嬰児は槊に貫かれて舞い戯れの種にされ、通過した地は赤地となり尽きた。遼東の境内の熟戸女真も阿骨打に併呑され、強壮な人馬を選んで軍とし、鉄騎万余人を有するに至った。
  • はじめ蕭嗣先の出河店の敗戦の際、諸蕃漢の兵将は多くが都統の行営に集まらず、各自逃げ帰るか、傷を負って行闕に訴え帰郷を願う者もいた。蕭奉先は弟の嗣先が罪を受けることを恐れ、天祚に「東征の潰兵は行く先々で略奪を懼れており、権に応じて赦さなければ集まって腹心の患いとなるでしょう」と奏し、天祚はこれに従い、出河店の潰軍に赦を下して罪を免じ本業に帰らせ、遺棄した官の器甲も取り立てなかった。嗣先も闕に赴いて罪を待ったが官を免じられただけであった。以後、出征の兵は皆「戦えば死あって功なく、退けば生あって罪なし」と考えるようになった。赦により罪を免じても功を成せなかったのはこのためである。

天慶五年(1115年)――天祚の親征と大敗

  • 秋七月朔、日食。
  • 八月、天祚は女真親征の詔を下し、蕃漢兵十余万を率いて長春路より出た。樞密使の蕭奉先を御營都統とし耶律章奴を副え、精兵二万を先鋒とし、残りを五部に分けて正兵とし、大臣・貴族の子弟千余人を硬軍、扈従の百司を護衞軍とし、北へ駱駝口を出た。車騎は百里に亘り、鼓角旌旗が原野に響き渡った。別に漢軍の步騎三万を都檢點の蕭胡覩姑に統率させ樞密直學士の柴誼を副え、南の寧江州路より出させた。長春州から道を分けて進み、数ヶ月分の糧を携え、女真を必ず滅ぼすと期していた。
  • ある夕、軍中の戈戟に光が生じ、馬もみな嘶いたため、皆不吉と考えた。天祚が天官の李圭に問うたが答えられなかった。宰相の張琳は「唐の莊宗が梁を攻めた際、矛戟に夜光があった。郭崇韜が『火が兵刃から出るのは賊を破る兆しだ』と言い、そのとおり梁を滅ぼした」と奏し、天祚は喜んでこれを信じ、進軍した。女真軍は鴨綠江に至り、人心は疑い懼れた。
  • はじめ天祚の親征に女真は非常に懼れ、粘罕・兀室は偽って卑屈に降伏を請う体をとりつつ、実際は戦いを求める傲慢な書を上呈した。天祚は大いに怒り「女真が過ちを犯したので大軍でこれを翦除する」との詔を下した。阿骨打は諸酋を集め「はじめお前たちと兵を起こしたのは遼国の残虐に苦しんだからだ。今わしが卑屈に降伏を請うたのは禍を和らげるためだったが、ことごとく翦除しようというなら、どうすればよいか。わし一族を殺してでも皆で迎え降れば禍を転じて福となせよう」と述べたが、諸酋は皆拝して「事ここに至れば誓って死戦するのみ」と答えた。
  • 翌日、御營は三十里退いた。ある者が天祚に「兵はすでに深く入り女真は近くにあり、軍心はみな一戦を願っているのに、なぜ退くのか」と言い、天祚は諸統兵官を急ぎ召して策を問うたが、皆様子見をして「戦いたくない」と言う者はなく、再び進軍を命じた。
  • 十一月、天祚は女真兵と会戦した。時に厳寒で雪の深さ一尺余り、先鋒が交戦すると雲塵が天を覆い日の色は赤く暗んだ。天祚は自ら諸軍を督戦したが、しばらくして軍馬が左に三度旋回すると、すでに屍が野に満ちており、天祚の御旗が西南へ向かうのが望まれると、衆軍もそれに従って敗走した。ここで矛戟の光が凶兆であったと悟った。女真も急いで追わず、ゆっくり分捕った輜重・馬牛を収めるのみであった。天祚は一昼夜で五百里を走り、長春州に退いて守った。女真は勝ちに乗じて渤海・遼陽など五十四州を併合した。
  • 大横帳出身の耶律章奴は衆と謀り「天祚は道を失った。皇叔の燕王淳は親賢であり、天祚を廃して燕王を迎え燕京留守事を判じさせれば、女真も戦わずして服するだろう」と述べ、章奴は同謀の者二千余騎と夜半に上京へ奔り燕王を迎立しようとした。この日、燕王妃の父蕭唐骨德がこの事を告げたため、天祚は長公主駙馬の蕭昱に精騎千余を率いて廣平甸に赴き后妃・諸王の行宮を守らせ、別に帳前親信の乙信に御札を持たせて燕王に馳せ報じさせた。
  • 章奴はあらかじめ燕王の二妃の実弟蕭諦里・甥の蕭延留を遣わし「先日御營兵が女真に敗れ、天祚の所在も分からず、天下に主なく、諸公はまだ幼弱です。王が軍国の事を権に知られよ。この機を逸せば姦雄が動き出し、事は容易でなくなります」と説かせたが、燕王は「これは容易なことではない。天祚には立てるべき諸王がいる。南北面の大臣が来ずお前たちが来るのはなぜか」と答え、ひそかに左右に命じて拘束させた。しばらくして乙信が天祚の御札を持って至り、章奴らの廃立の企てを詳しく告げた。燕王は使者に対して泣き叫び、蕭諦里・蕭延留の首を斬って献じ、単騎で間道を通り章奴の賊衆を避けて廣平甸へ赴き罪を待った。天祚はもとどおりに扱った。
  • 章奴は燕王が聞き入れなかったと知ると、麾下を率いて慶・饒・懷・祖等の州を掠め、渤海の盗衆数万を集めて廣平甸へ真っ直ぐ向かい天祚の行闕を侵し戦いを挑んだが、順國の女真阿鶻產らの三百余騎が一戦して勝ち、その貴族二百余人を捕らえて皆斬って見せしめとした。妻子は繡院に配役し、あるいは近幸の婢として与えられ、残りの逃れた者は女真に奔った。章奴は偽って使者を装い牌を帯び馬を走らせ女真近くの泰州へ向かったが、見破られて捕らえられ天祚に送られた。天祚は市で腰斬にし、その心臓を祖廟に献じ五路に分けて号令とした。
  • 章奴の叛乱にあたり、蕭奉先は燕王がもとより漢人の心を得ていることから章奴が南路漢軍と密かに同謀しているのではと疑い、急ぎ天祚に上聞した。天祚は同知宣徽北院事の韓汝誨を漢軍の行営に遣わし「将士は家を離れ長らく風霜にさらされ、まことに憐れむべきだ。女真は遠くへ退いたので深追いする必要はない。皆放って帰らせよ」と宣した。諸軍は喜び分散した。三日後、再び使者を遣わして進発を督したが、軍中は動揺し進もうとせず、大軍がすでに敗れたと聞くと自ら陣営を焼いて逃げ去った。天祚に随行する衞兵はわずか三、五百人にすぎなかった。そこで燕・雲の漢人を募って護駕して廣平甸に至れば有官者は一階昇進、白身者は三班奉職とする詔を下し、廣平に至ってから改めて護駕して出立の日に至れば同様に賞するとの指揮を下した。
  • この年、宋は羅選・侯益らを遣わして遼に賀生辰・正旦の使いとしたが、途上道が塞がり中京で二ヶ月阻まれ、天祚に会えないまま帰った。

天慶六年(1116年)――高永昌の東京占拠

  • 春正月朔の夜、渤海人の高永昌が凶徒十数人を率い、酒に乗じ勇を恃んで刃を持って垣を越え府衙に入り、庁に登って留守の所在を問い、「外に軍変あり、備えを請う」と偽った。蕭保先がまさに出てきたところを刺殺した。
  • この夜、戶部使の大公鼎(もと渤海人で進士に及第し剛明で知られた)は乱の発生を聞いて留守事を代行し、副守の高清臣とともに諸営の奚・漢兵千余人を集め、翌日乱を起こした渤海人を捜索して数十人を得て斬首し、民を撫安した。あわただしい取り締まりの中で誤って害された者もあった。小人が乱を喜んでこれを口実とし、禁止しきれず、一夜にして寨に火を放って乱を起こした。
  • 初三日、軍馬が首山門に至り、大公鼎らが門に登って帰順を説いたが従わなかった。
  • 初五日夜、城中に火が上がり内応が門を開けたため騎兵が突入し通衢に陣を布いた。大公鼎・高清臣が軍を督して迎え撃ったが勝てず、麾下の残兵百余人を率いて西門を奪い脱出し行闕へ奔った。
  • 高永昌は留守の蕭保先を殺した後、東京を自ら占拠し、大渤海皇帝を自称し応順と改元し、遼東五十余州を有した。軍馬を分遣し殺掠をほしいままにしたため、各地の州郡の奚人戸はしばしば家族を連れて遼水を渡り避難した。ただ瀋州のみ落ちなかった。宰相の張琳は瀋州の人であり、天祚はこれに討伐を命じた。琳は以前二度戸部使を務め東京での人望があったため、遼東で生業を失った者を募り、また転戸の強壮な者を強いて従軍させた。遼東はもとより女真・渤海と仇があり、転戸は良民として召し従わせれば効命に敢えて戦うと考えたためである。旬日の間に兵二万余を得て、随行の官属・将領も任意に選ばせた。
  • この春、天祚は渤海の武勇の馬軍を務める高永昌ら二千人を白草谷に屯させ、女真の備えとしていた。ちょうど東京留守の太師蕭保先が政を酷虐に行い、渤海はもとより悍猛で犯法者を許さなかった。東京はもと渤海の故地で、阿保機が二十余年力戦してようやく得た地であり、東京と建てられていた。
  • 夏五月初、顯州から進兵し、渤海は遼河三叉黎樹口を守るのみであった。張琳は羸弱な兵数千を遣わしてその守兵の目を欺きつつ、精騎を間道から瀋州へ渡らせた。渤海がはじめて気づき兵を遣わして迎え撃ち、旬日の間に三十余戦し、渤海はやや退いて東京に籠もった。張琳の兵は城から五里の地に至り太子河を隔てて陣を布いた。先に人を遣わして招撫の文書を送ったが従わず、五日分の糧を残し決戦して城を破る策を立てた。二日後、安德州の義軍を先に渡河させ、大軍を続いて渡らせようとしたところ、上流から渤海の鉄騎五百がその傍らに突出し、諸軍はやや退き旧寨を守り、河路は再び断たれ三日渡れなかった。兵は飢えを訴え瀋州に帰り後図を図る議となった。
  • 初七日夜、寨を移すと渤海の騎兵が追撃し、強壮な者だけがようやく城に入れ、老幼はことごとく殺され掠められた。この時軍伍はなお整っており再挙を議していたところ、女真の西南路都統闍母国王からの檄が届き「渤海国王高永昌の状に依れば遼国の張宰相が大軍を率いて討伐に来ているため救援を乞う、道義上応援すべきである。すでに五月二十一日に進兵すると約した」とあった。檄が瀋州に届いた際、衆は渤海が詐って作った檄だろうと考え備えなかった。この日、東北に軍が迫っているとの報が入り、将士は「女真が来た」と叫んだ。張琳は急ぎ軍を整えて迎え撃とうとしたが、将士は女真の兵を見て気力を失い敗走して城に入った。女真もそのまま入り、まず城の西南を占め、後に兵を放って殺戮をほぼ尽くし、孟初・劉思溫らが戦死した。張琳は諸子弟・官属とともに城を縋って辛くも逃れ、軍資・器甲をすべて失い遼州に入って残軍を収めたが、この責により遼興軍節度使に左遷された。
  • 張琳の敗戦以来、国人は皆燕王賢を忠と称え、東征を任せれば士は喜んで用いられるだろうと言った。また遼東の民は渤海の叛乱以来遼水を渡って居場所を失った者が多く、これを招いて軍とすれば彼らは怨みを晴らし、これはまた国に報いることにもなり、必ず死戦するだろうと考えられた。天祚はそこで燕王を都元帥に任じ、蕭德恭を副え、永興宮使の耶律佛頂・延昌宮使の蕭昂をともに監軍とし、官属を辟召させ、遼東の飢民を募って二万余を得て「怨軍」と呼んだ(郭藥師のような者がこれである)。別に燕・雲・平路の禁軍五千人を選び、三路の富民に等第に応じて武勇軍二千人を献じさせた(董龐兒・張關羽のような者がこれである)。さらに運脚車三千乗を科し従軍に備えさせ、境内は騒然となった。
  • 燕王はすでに怨軍を招き、禁軍・武勇軍とあわせて三万人となり、八月に進発し、十月に乾州の十三箇山に至り陣を布いた。十一月二十四夜、管押武勇軍の太常少卿武朝彥は府属の馬僧辨とともにひそかに謀反を企て、百余騎を中軍帳に走らせ、まず燕王を殺そうとした。燕王はこれに気づき他軍へ奔り難を免れたが、他の兵は皆壁を閉ざして応じなかった。武朝彥は謀が成らないと知り騎二千を率いて南へ奔ろうとしたが、途中で張關羽に殺された。
  • 燕王は東征を命じられて以来その務めを恥じ、境を出ないうちに兵乱に遭ったが、なお諸軍を励まし黎樹口から遼水を渡り、瀋州を落とそうとして城下に駐屯し、矢文を射込んで降伏を促したが応じず、精鋭を選んで梯で城に登ろうとしたが矢石が雨のように降り登れず、女真の援軍が至るとの報を受けて遼河に退いた。この行いは得るものはなかったが失うものもなかった。ほどなく燕王は闕に召還され、北宰相の蕭德恭が上京路都統に留任し耶律余覩が副え、太常袞の耶律啼哩姑濠が懿州路都統となり延慶宮使の蕭和尚奴が副え、都元帥府監軍の耶律佛頂が顯州路都統となり四軍太師の蕭幹が副え、いずれも屯田で備えとした。
  • 天祚の親征失敗以来、中外は蕭奉先を罪の元凶とした。奉先は西南面招討に左遷され、耶律大悲奴が北樞密使に抜擢され、蕭查刺が同知樞密院使となった。軍国の大事は天祚が南面宰相・執政の吳庸・馬人望・柴誼らと議したが、いずれも凡庸で決裁できず、当時国人は諺で「五箇翁翁四百歳、南面北面頓瞌睡。自己精神管不得、有甚心情殺女直」と歌い、遠近に伝わり笑いの種となった。ある者がこれを天祚に告げても、天祚も笑うだけで悟らなかった。この年、耶律大悲奴のみ罷免され、再び蕭奉先に代えさせ、蕭查剌は西京留守事を授けられた。その後、吳庸・馬人望・柴誼は罷免され李處溫・左企弓が代わり、国が亡びるまでこの体制が続いた。
  • 女真ははじめ渤海を援けたが、ほどなく再び相攻め、渤海は大敗した。高永昌は海に逃げ入ったが、女真は兀室・訥波勃堇に騎三千を率いて追わせ、長松島でこれを斬った。潰散した漢人兵はしばしば集まって盗となり、侯概・吳撞天のような者が各地に千百単位で蟠踞し、「雲隊」「海隊」などと自称して並び起こり、一飯ごとに数千人を屠るありさまで、数路の民はほとんど尽き、遼はこれを制することができなかった。

天慶七年(1117年)

  • 夏、天祚は再び燕王に四路の兵馬を集めさせ秋を防がせた。九月初め燕山府から発し、十月に陰涼河に至った。怨軍が寒さに衣もないまま乾州を掠めているとの報を聞き、都統の蕭幹が一面招安させた。もとより怨軍には八営あり、あわせて二万八千余人。宜州で募られた者を前宜營、再び募られた者を後宜營、前錦・後錦も同様であり、乾營・顯營のほか乾顯大營・岩州營があった。叛いたのは乾顯大營・前錦營であった。十一月、衞州蒺藜山に至った。そこで大軍を司農縣に留めて糧を取らせ、軽騎二千を率いて顯州へ赴こうとし、乱を起こした怨軍を処置しようとしたところ、懿州へ向かう途中で女真の前軍がすでに明王墳を過ぎたとの報が入り、大軍を徽州に集結させた。
  • 星が月のようなものが現れ、ゆっくりと南行しながら落ち、その光は人物を照らし月と変わらなかった。
  • この年、蘇・復州の編民百余戸が海を渡って登州の岸に至り、女真兵が来攻して遼東の地を奪い、すでに遼河の西を過ぎたと詳しく告げた。登州守の王師中がこれを宋に上聞した。宋は童貫・蔡京に議させ、人を遣わして実情を偵察させ、王師中に将校七人を選ばせ各々官を借り、平海指揮の兵船を用いて高藥師を同行させた。海北に至り女真の偵察兵を見て進めず青州に戻った。安撫の崔直躬がこの事を宋に奏し、詔でまた童貫にその措置を委ね、官を借りて渡海した者はすべて法で処すこととした。別に使者を女真に遣わし旧来の馬市を講じさせた。

天慶八年(1118年)――燕王淳の敗戦と各城の陥落

  • 春正月、燕王淳は怨軍を討とうとして徽州の東で女真と遭遇したが、陣を布く前に潰えた。もとより女真の攻勢の前後にはしばしば天象が現れ、白気が天を経て、あるいは白虹が日を貫き、あるいは天狗が夜に墜ち、あるいは彗星が西南を掃き、赤気が空に満ちるたび遼兵は敗れた。この夕、赤気が火光のように東から起こり、行き交って乱れ、しばらくして散った。軍中はこれを凶兆とし戦意を失った。燕王は麾下五百騎とともに長泊・魚務に退いて守った。
  • ここに女真は新州に入り、節度使の王從輔が門を開いて降り、女真は焼き掠めて去った。通過した成・懿・濠・衞の四州はいずれも降り、女真は犒労して過ぎた。女真は別に闍母国王を遣わし顯州で怨軍を攻め、怨軍は大敗した。
  • 蕭幹は毉巫閭山の牽馬嶺へ奔り残卒を収めたが一万に満たなかった。女真は馬が疲れたため乾・顯等の州を破って焼き掠め帰った。天祚は中京にあり燕王の敗戦、女真の新州侵入を聞いて昼夜懼れ、ひそかに内庫三局の官に珠玉・珍玩五百余囊、駿馬二千匹を包ませ、夜に飛龍院に運び入れて備えとさせた。左右に「もし女真が必ず来るなら、私には日に三百五十里を行く馬が何頭かあり、また宋朝とは兄弟の誓い、夏国とは舅甥の誼があるから、いずれかに身を寄せても一生の富貴は失うまい。憂うべきは軍民が禍を被ることだけだ」と語った。これを聞いた識者はひそかに「遼はもう亡ぶ。古来、人主が軍民を棄てて自分の身の保身だけを図って国を保てた例があろうか」と語り合った。女真が新州を焼き掠めて帰ったと聞くと、天祚は威徳が通じたと思い、ふたたび放埓に戻った。
  • 五月壬午朔、日食。
  • 秋、女真は東京・黃龍府・咸・信・蘇・復・辰・海・同・銀・通・韓・烏・遂・春・泰・靖など五十余城を陥れた。国内および辺境の二十余州にはそれぞれ和糴倉があり、祖宗の法により毎年古い穀を出し新しい穀に替え、民の自発的な借り入れを許し二分の利息を取っていた。その蓄えはおよそ三、五十万石にのぼり、たびたび挙兵しても手を付けなかったが、この時女真がことごとく奪い、遼東・長春の両路を占拠した。
  • この頃、遼東鐵州の人で楊樸という者がいた。もと渤海の大族の出で進士に及第し校書郎まで累進していた。先に高永昌が叛いた時に女真に降り重んじられ、阿骨打に皇帝を称し天輔と改元し、姓を王、名を旻とし、国が金を産することから大金と号するよう勧めた。また阿骨打に「古来英雄が国を開き禅を受ける際は、まず大国に冊封を求めるものだ」と説いた。
  • 八月、阿骨打は使者を天祚に遣わし冊封を求めた。その事は十項目あった。徽号を大聖大明皇帝とすること(一)、国号を大金とすること(二)、玉輅(三)、袞冕(四)、玉刻の御前の印(五)、兄弟の間柄として通問すること(六)、生辰・正旦に使者を遣わすこと(七)、歳ごとに銀絹二十五万疋両を送ること、南宋の歳賜の半分に当たる(八)、遼東・長春の両路を割譲すること(九)、女真の阿鶻產・趙三大王を送り返すこと(十)である。
  • 天祚は群臣に議させた。蕭奉先は大喜びで、これで患いはなくなると考え、靜江軍節度使の蕭習泥烈・翰林學士の楊勉を封冊使・副とし、歸州觀察使の張孝偉・太常少卿の王甫を通問使・副とし、衞尉少卿の劉湜を管押禮物官、將作少監の楊立忠を讀冊使として、天子の袞冕・玉冊・金印・車輅・法駕の類を備え、阿骨打を東懷國至聖至明皇帝に冊立した。冊文には概略「肅慎の地は扶餘の風俗を持ち、その土地は上国に接し材木は中原に匹敵する。碧雲は野に広がり皓雪は霜となり飛ぶ。封章はたびたび報じられ誠意は通じ合い、遠い芳しさを念じ多くの祝いを受けるにふさわしい。ここに蕭習泥烈らを遣わし節を持たせ礼を備え、東懷國至聖至明皇帝に冊立する。義は友睦を敦くし、地は豊腴を列ねる。ああ戒めよ敬めよ、休(よ)きに孚(かな)うように」とあった。求められた徽号は祖号に触れるため至聖至明に改め、他はすべて従った。
  • 使者は十月に発ち、冬十二月に金国へ至った。楊樸は儀物が天子の制として不完全であること、また「東懷國」は小邦がその徳を懐うという意味にすぎず「兄」と冊立する文言もないこと、「遙芬多戩」なども美意ではないこと、彤弓・象輅も諸侯の事にすぎないこと、「渠材」の二字は軽んじているように見えることを指摘した。蕭習泥烈に文言を改めて持ち帰らせ、返答には「兄友弟恭は周書に出るもので、友睦を言えば兄の義は自ずと見える」とあったが、楊樸らは面と向かってこれを非とした。阿骨打は大いに怒り使者・副使を叱り出し腰斬にしようとしたが、粘罕ら諸人が謝ったため事は収まり、なお百余の笞を加えられた。
  • 翌年三月、蕭習泥烈・楊立忠のみを帰し、「冊文は我を罵っているが私には分からぬ。徽号・国号・玉輅・御璽はすでに私が持っている。ただ我を大金国皇帝の兄と称するよう求めるのみだ。これに従えるなら今秋にも軍前へ来られよ。さもなくば私は兵を率いて上京を取るだろう」と告げさせた。天祚は女真の事を聞くのを嫌い、蕭奉先はその意を察してすべて上聞しなかった。ずるずると引き延ばすうち上京がすでに破れたとの報が入り、和議はついに立ち消えとなった。後に天祚がたびたび和を求めても、返答はなかった。