契丹國志卷十六 帝紀 景宗皇帝

景宗(諱明記のち賢、世宗兀欲の子、969年–982年/983年在位)。穆宗弑殺後に迎立され保寧と改元。生来病弱で政務の多くを皇后蕭燕燕(後の承天太后)に委ね、宋との間で幽州攻防など戦いを経た。廟号景宗、諡孝成皇帝。

年表(7件)

出自と生い立ち

  • 景宗、諱は明記、のち賢と改名。世宗兀欲の子。穆宗が帳下の者に弑されたのち、諸将に迎立されて即位し、天贊と号した。樞密使知政事令の高勳を守政事令として秦王に封じ、侍中の蕭守興を尚書令として魏王に封じた。朝ごとに必ず座を賜り国事を議させた。蕭守興の娘、燕燕を皇后に納れた。
  • これより先、火神淀で弑逆が起きた際、述軋が世宗を害し皇后にも及び、さらに帝(当時九歳)をも殺そうとしたが、御廚尚食の劉解里が氈で帝の身を包み薪の中に隠したため難を免れた。即位後、風疾を患い、多くは朝に出なかった。保寧と改元した。

保寧元年(969年)

  • 遼は境内に大赦を行った。刑賞政事、用兵追討はすべて皇后が決し、帝は牀榻の間に臥して拱手するのみであった。

保寧二年(970年)

  • 春二月、宋の太祖は曹彬らに北漢を伐たせた。
  • 夏四月、遼は道を分けて北漢を救援したが、宋の何繼筠に陽曲で敗れ、また韓重贇に定州境で衆を撃破された。

保寧三年(971年)

  • 夏四月朔、日食。
  • 冬十一月、遼騎六万が定州を攻め、宋の太祖は田欽祚に兵三千を率いて滿城で戦わせたが、馬が流矢に当たって倒れ、騎士の王超が馬を欽祚に与えて難を免れさせ、夜に遂城に入って守った。遼兵は数日これを囲んだが、欽祚は城中の糧が少ないことを見て取り、兵を整えて南門を開き、囲みの一角を突いて脱出した。

保寧四年(972年)

  • 冬十月朔、日食。

保寧五年(973年)

  • 秋九月朔、日食。

保寧六年(974年)

  • 春正月、周の鄭王が房州で薨じ、諡を恭帝といった。

乾亨元年(975年)

  • 春二月朔、日食。
  • 冬十一月、遼の辺境の臣が宋の雄州守孫全興に書を送り和を請うた。全興はこれを宋の太祖に上聞し、太祖はこれを許した。

乾亨二年(976年)

  • 春三月、遼は使者を遣わして宋に聘問した。
  • 夏六月、彗星が柳宿に出現、長さ三、四丈、明け方東方に見え西南を指し、輿鬼を経て東壁に至るまで、あわせて十一舎、八十三日で消えた。
  • 秋七月朔、日食。
  • 宋ははじめて使者を遣わし遼と通交した。

乾亨三年(977年)

  • 冬十月、宋の太祖が崩じた。齢五十、在位十七年。皇弟の晉王が帝位に即いた。

乾亨四年(978年)――富弼ならぬ辛仲甫の使命

  • 夏四月、宋は太祖を永昌陵に葬った。遼は鴻臚少卿の耶律敞らを遣わし葬儀を助けた。宋の太宗はほどなく起居舎人の辛仲甫を遼に使いさせ、右贊善大夫の穆波を副えた。当時宋朝はまさに北漢を討とうとしており、北漢は遼を援けと頼んでいたため、仲甫は境上に逗留してあえて進まなかったが、宋の詔で急ぎ赴くよう命じられ、遼に至った。
  • 帝が「中朝に党進という者がいると聞くが、真に驍将だという。進のような者はいくたりいるのか」と問うと、仲甫は「名将は非常に多く、進のごとき鷹犬の材など数え切れません」と答えた。帝はこれを引き留めようとしたが、仲甫は「信義をもって命を果たすのが道であり、留まることはできません。死あるのみです」と答え、帝はその節義を曲げがたいと知り、厚く礼を尽くして帰した。
  • 冬十一月朔、日食。

乾亨五年(979年)

  • 特に記載なし。

乾亨六年(980年)――宋太宗の北漢親征と幽州攻防

  • 春二月、宋の太宗が自ら北漢を親征した。
  • 三月、遼は数万騎を援軍として送ったが、石嶺関の南で戦い、宋の郭進に敗れた。
  • 夏四月、北漢主の劉繼元が宋に降った。北漢の広運は十三年で尽きた。
  • 六月、宋は親征の詔を下し、鎮州から発した。涿州判官の劉原德は城を挙げて宋に降った。
  • 秋七月、太宗は幽州に至り城を攻めて旬を越えても落とせず、士卒は疲弊し、輸送も遠く困難であり、また遼の救援が来るのを恐れて兵を退いた。
  • これより先、宋軍が并州から幽州へ進んだ際、その無備に乗じたが、帝はちょうど狩猟中で急ぎ牙帳に帰り、群臣は幽・薊を棄てて松亭・虎北口を兵で守るのみとする案を議した。時に耶律遜寧は号を于越(「舍利郎君」と呼ばれた)といい、兵十万を請うて幽州を救おうとした。西山に沿って幽陵に迫り、人は夜に両炬を持ち朝に両旗を掲げた。精騎三万を選び、夜に他道から宋軍の南を回って北へ席巻するように進ませた。
  • 遼で先に幽州を守っていた兵は脆弱な兵卒ばかりで、宋軍の盛んな勢いを見て風を望んで逃げ、また宋軍に阻まれて進退窮まり、かえって堅く守ることとなった。ここに于越の救援が至り、宋軍はついに兵を退いた。ある者が于越に後を襲うことを勧めたが、于越は「幽・薊を救えとの命を受け、今それを果たした」と述べ、追撃しなかった。
  • 宋の太宗は北侵を欲し、渤海王に兵を発して呼応するよう詔を遺わしたが、渤海は遼を恐れて誰も来なかった。遼は使者を渤海に遣わして問責した。
  • 秋九月、遼は鎮州を攻めたが、宋の趙延進に敗れた。

乾亨七年(981年)

  • 冬十一月、帝は兵一万余を発して関南に進攻したが、宋の河陽節度使崔彥進が兵を率いてこれを防ぎ、遼軍は失利した。
  • 十二月、宋の太宗が親征して大名に至ると、遼軍は逃れ、宋も兵を班した。

乾亨八年(982年)――帝の崩御

  • 遼は大赦を行った。
  • 帝は性質仁弱で、音律を好み、医術を喜び、伶倫・鍼灸の輩に節鉞・使相の位を授けた者は三十余人に及んだ。幼少より病を得て、久しく重い病に沈み、四季の遊猟も間々故典に従うのみで、体が疲れて自ら馬に跨ることもできず、令節の大朝会でもふさぎ込んで楽しまず、朝に出ないこともあった。酒色に耽り、晩年も少しも休まなかった。燕燕皇后は女主として臨朝し、国事はことごとくその手に決した。大誅罰・大征討も蕃漢の諸臣が集まって共に議し、皇后が裁決したうえで帝に知らせるだけであった。易・定・幽・燕の間で二度の大戦があり、烽火の使いが頻繁に往来し、国内は恐々としていたが、帝は病に臥して自ら出陣できず、基業はやや衰えた。
  • 秋九月朔、日食。

乾亨九年(983年)――崩御

  • 春三月朔、日食。
  • 夏五月、遼は三道に分かれて宋に入ったが、宋の辺将に敗れた。
  • 冬十二月朔、日食。
  • この年、帝が崩じた。諡は孝成皇帝、廟号は景宗。

史論

  • 景宗は若くして位に即き、多難のさなかに遭った。秋が深まって葉が落ちるように衰えたのも自然の理である。政は自らの手から出ず、牝鶏が晨を告げるような女主の専横を免れなかった。祭祀では寡人と称しても、実際には后の手のもとに命を聞くのみであった。それでも虚しい尊号と帝号を保てたのは、幸いというべきである。