契丹國志卷十五 帝紀 興宗皇帝

興宗(諱宗真、番名木不孤、聖宗の第八子、1016年–1055年、廟号興宗、諡文成皇帝)。生母法天皇后が長く専制し、齊天后を殺害するなど後宮の争いを経て、重熙二年に母を廃し親政を開始。富弼との交渉で宋から歳幣増額を得るなど外交面で存在感を示した。

年表(9件)

出自と生い立ち

  • 興宗皇帝、諱は宗真。番名は木不孤。聖宗の第八子で、生母は順聖元妃。
  • 顯州の東、錐子河で生まれ、はじめ梁王に封ぜられ、のちに皇太子となった。
  • 聖宗が崩じると即位し、翌年に景福と改元。軍国の事はすべて生母の法天皇后が取り仕切った。

太平十年(1030年)

  • この年帝は即位し、生母の順聖元妃を法天皇后と尊び、嫡母を齊天皇后とした。
  • 齊天后は平州節度使蕭思猥の娘で、丞相耶律隆運の甥にあたる。容色に優れ聖宗の寵愛が深く、承天太后にも謹んで仕えたため、承天太后(耶律隆運との縁から)齊天后を深く愛した。承天太后が亡くなると齊天后が政に関与し、権勢を強め、宮闈司を置き属官を補し教令を出した。誕生日は「順天節」と呼ばれた。子はいずれも育たなかった。
  • 元妃(法天后)が生んだ長子が今の帝、次子は達妲李、ほかに楚國公主・燕國公主がいる。承天太后は楚國公主を弟の蕭徒姑撒に嫁がせ、そのために城(睦州、長慶軍と号す)を築き、戸一万を移して住まわせた(「從嫁戶」と呼ぶ)。
  • 齊天后は琵琶に長じ、琵琶の名手である燕文顯・李睦文と通じているとの噂を元妃がたびたび聖宗に告げたが、聖宗は信じなかった。また番書が聖宗の寝所に投げ込まれる事件があり、聖宗はこれを元妃の仕業と断じて焼かせた。
  • 聖宗は遺命で齊天后を皇太后、順聖(元妃)を太妃とするよう命じたが、元妃はこれを隠して自ら皇太后を称し、人を使って齊天后が謀反を企てたと誣告させ、小車に載せて上京に幽閉した。
  • 帝は「齊天皇后は先帝と四十年連れ添った夫婦であり、先帝の遺詔で太后に立てるはずだった。いま立てられなかったからといって、どうして殺すに忍びようか」と述べたが、法天后は諸兄弟に諮り、皆「生かしておけば必ず後患となる」と奏したため、法天后は聞き入れず齊天后を縊り殺し、その側近百余人も殺し、庶人の礼で祖州の北、白馬山に葬った。

法天皇后の専制

  • 法天皇后はこの国を専制し、功臣を多く殺し、蕭氏の兄弟を用いて南北の蕃漢の政務を分担監督させ、蕭氏の家人で團練使・防禦使・觀察使・節度使になった者は四十人に及んだ。范陽の無頼の徒が多く楽工の名を借りて蕭氏の家人となった。
  • 帝が上尊酒・銀帯を楽工に賜ったところ太后が怒り、楽工の孟五哥を鞭打った。帝は内品の高慶郎が太后に告げ口したことを知り、左右に命じて高慶郎を殺させた。太后はますます怒り、下吏に命じて雑然と取り調べさせ、話は帝にまで及んだ。帝は「私は貴きこと天子でありながら、囚人と同じく答弁させられるのか」と述べ、ふさぎ込んだ。

景福元年(1031年)

  • 特に記載なし。

重熙元年(1032年)

  • 春二月、星孛(彗星)が東北に現れ、光芒の長さ一尺。
  • 夏六月朔、日食。

重熙二年(1033年)

  • 秋八月、星孛が張宿に現れ、尾の長さ七尺、幅五寸、十二日で消えた。
  • この年、帝は耶律喜孫と謀り、兵を率いて母の法天太后を逐い、黄布の車に載せて慶州に送り聖宗の陵墓を守らせた。あわせて永興宮都總管の高常哥および内侍数十族を誅し、内庫都提點の王繼恩・内侍都知の趙安仁らに南北面の蕃漢の臣僚を監督させた。
  • 宋朝は聖宗の太平四年以来、毎年使者を遣わして帝の誕生日と元旦を賀し、太后への賀いは別に使者を遣わしていたが、この年からは別遣を取りやめた。重熙八年に法天太后が迎え戻されると、もとどおり使者を遣わすようになった。

重熙三年(1034年)

  • 帝は狩猟のため祖州の白馬山を通りかかった際、齊天太后の墓が荒れ果て、影堂も掃除する人もなく、ただ空しい山中に孤塚があるのを見て、悲しんで「私がもし今のようであったら、お前はこんな目には遭わなかっただろう」と泣き、左右の者も皆涙を流した。そこで上京留守の耶律貴寧、鹽鐵使の郎玄化らに詔して祖州の陵園内に吉地を選んで改葬させ、影堂・廊庫等はすべて宣獻太后の園陵と同様にした。

重熙四年(1035年)

  • 特に記載なし。

重熙五年(1036年)

  • 秋七月、星が数百も西南から東壁へと流れ、その光が地を照らし、黒気の長さ一丈余りが畢宿の下から出た。

重熙六年(1037年)

  • 春正月、多くの星が西北へ流れた。
  • 秋八月、熒惑(火星)が南斗を犯した。

重熙七年(1038年)

  • 特に記載なし。

重熙八年(1039年)

  • 春正月朔、日食。
  • これより先、帝は重熙二年に母の法天太后を慶州に幽閉していたが、齊天后を改葬したのち群臣が帝に太后を迎え戻すよう勧め、また宋朝の毎年の歳幣の利を望んだこともあり、皆これに従った。帝は僧に命じて仏事を営ませ、報恩経の講義を聞いて感悟し、使者を遣わして法天太后を迎え、中京の門外に館を置き、日を占って対面したところ、母子はもとどおりとなり、「法天應運仁德章聖皇太后」の号を加えた。ただし出入りの居所は常に十数里離れており、ひそかに備えを固めていた。
  • この年、太后ははじめて始平軍節度使の耶律元、方州觀察使の王惟吉を遣わし、帝も左千牛衞上將軍の蕭廸、右諫議大夫知制誥の劉三嘏を遣わして、宋へ乾元節を賀わせた。

重熙九年(1040年)

  • 特に記載なし。

重熙十年(1041年)――瓦橋關十縣をめぐる宋との交渉

  • 春三月、帝は蕭英・劉六符を宋へ遣わし、石晉が割譲した瓦橋關の十県を求めた。その書には概略「李元昊は北朝に対し甥舅の親があるのに、罪を問われても討伐する様子がない。しかも堤を築き要路をふさぎ、塘水を開いて溜め、辺境の軍を増やし、疑いを深めて信睦を損なっている。もし長く友好を思うなら、疑いを解き、晉陽の旧地・関南の元の割譲地を返還し、共に民を安んじたい」とあった。
  • もとより、涿州の進士梁濟世は帳下で文書を担当していたが、罪を得て宋に帰り、契丹が割地を求めようとしていることを告げていた。また雄州を知る杜惟序もこの事を先に知り上聞していた。ここに至り宋の仁宗は書を輔臣に示したが、皆顔色を変えなかった。劉六符もまた書の内容が先に漏れていたことを疑った。
  • 夏四月、宋は知制誥の富弼を回謝使として契丹へ遣わし、西上閤門使の張茂實を副えた。返書には概略「元昊は急に僭越を企てたため討伐を議したことはすでに伝えた。堤や陂澤を築いたとの指摘は、大雨で水が溢れたための防備にすぎず、兵や人夫を集めるのも辺臣の常の職務であって、互いに疑う理由はない。にわかに割地を求める話は盟約にない」とあった。
  • 富弼は契丹に至り、帝と何度も論争し、割地の意図を強く拒んだ。富弼は「両朝の君主は四十年友好を続けてきたのに、突然割地を求めるのはなぜか」と問い、帝は「南朝が約に背き、雁門を塞ぎ、塘水を増やし、城隍を修め、民兵を籍にとった。その意図は何なのか。群臣はこぞって南征を求めているが、私は使者を遣わして関南の故地を求め、得られなければ挙兵しても遅くはないと考えている」と答えた。
  • 富弼は「北朝は章聖皇帝の大德、澶淵の役を忘れたのか。もし諸将の言に従っていれば北兵は逃れられなかった。北朝が中国と通好し歳幣が絶えなければ人主がその利を独占し、臣下には何も得られない。用兵となれば利は臣下に帰し、禍は人主が引き受けることになる。だから北朝の群臣が用兵を勧めるのは、皆自らの利のためであって国のためではない」と説いた。
  • 帝が理由を問うと、富弼は「晉の高祖は天を欺き君を裏切って北朝の助けを求めた。末帝は暗愚で神も人も見捨てた。当時中国は小さく上下が離反していたため北朝は独り勝ちし、得た金帛は臣下の家に満ちたが、壮士・健馬の多くは失われた。この禍を誰が引き受けたのか。今の中国は万里の広さを持ち、精兵は百万を数え、法令は明らかで上下は一心である。北朝が用兵して必ず勝てるか」と問い、帝は「勝てない」と答えた。
  • 富弼は「勝負が分からぬ以上、もし負ければ失われる士馬は群臣が引き受けるのか、人主が引き受けるのか。通好が絶えなければ歳幣はすべて人主に帰し、臣下が得るのは使者一二人にすぎない。群臣に何の利があろうか」と説き、帝は大いに悟り、しばらくうなずいた。
  • 富弼はさらに「雁門を塞いだのは元昊への備え、塘水は何承矩に始まり通好前からの事で地形上やむを得ず増えたもの、城隍・民兵もすべて旧に依るもので約に背いていない。晉の高祖が盧龍の一道を契丹に賂し、周の世宗が関南を伐り取ったのはいずれも異なる時代の事。宋が興ってすでに九十年、各々が異代の故地を求めれば北朝の利にもならない。本朝の皇帝は使者にこう言わせている――『朕は宗祖のために国を守り、地を人に与えることは決してしない。北朝が求めるのはその租賦の利にすぎない。朕は争地のために両朝の民を殺したくないので、己を屈して歳幣を増やし賦入に代える。もし北朝がどうしても地を得ようとするなら、それは盟を破る意図であり、朕もどうして用兵を避けられようか。澶淵の役は天地鬼神が実際に見ていた。今北朝が兵端を開けば、過ちは朕にはなく、天地鬼神を欺けようか』」と述べた。
  • 遼帝(興宗)は感悟し、婚姻を求めようとしたが、富弼は「婚姻はかえって隙を生みやすく、人の寿命は測れない。歳幣の堅固さには及ばない。本朝の長公主が降嫁する際の持参金も十万緡に過ぎず、歳幣の無窮の利には及ばない」と説いた。帝は「卿はいったん帰るがよい。再び来る時は一件を選んで返答し、あわせて誓書を持ってくるように」と述べ、富弼は帰国して復命した。
  • 八月、宋は再び富弼と張茂實を遣わして契丹に書を届けさせた。その書には「章聖皇帝と紹聖皇帝の誓書にある毎年絹二十万疋・銀十万両の助けに加え、両朝修好三紀に及ぶ今、関南の県邑は本朝が伝守して久しいため従いがたいが、毎年さらに絹十万疋・銀十万両を増す」とあった。
  • 帝は婚姻を求めることをやめ、増額した歳幣について「南朝が我に贈る書は『獻』とすべきか、しからずば『納』とすべきだ」と主張したが、富弼は固く争って認めなかった。帝が「南朝はすでに我を恐れているのに、なぜこの一字を惜しむのか。私が兵を率いて南下すれば後悔しないか」と迫ると、富弼は「本朝の皇帝は南北の民を愛し、兵を交えさせるのを忍びないため己を屈して歳幣を増やしたのであって、恐れているわけではない。もしやむを得ず兵を用いるなら南北は敵国となり、曲直によって勝敗が決まるだけで、使者が憂う話ではない」と答えた。
  • 帝が「卿は固執するな、古にも例がある」と言うと、富弼は「古は唐の高祖が突厥から兵を借り、臣事した例があるのみで、当時の贈り物が『獻』『納』と称されたかは分からない。その後頡利が太宗に捕えられてからは、この礼があったろうか」と声を励まして答え、帝は説得できないと悟り「私は人を遣わして議させよう」と述べた。
  • そこで増額の誓書は留め置き、改めて耶律仁先・劉六符に誓書を持たせて宋に遣わし、「獻」「納」の字を求めさせた。富弼は宋帝に「臣は死をもって拒みますので、許さずともよく、彼らにはどうしようもないでしょう」と奏し、宋帝はこれに従った。当時契丹は盟好を惜しみつつ、あえて虚勢を示して宋朝を揺さぶった。宋はちょうど西夏に困っており、許した条件は過分に厚かった。契丹は歳ごとに金帛五十万を得るようになり、碑を建てて功を記し、劉六符を顕官に抜擢して子孫は国中で貴顕となった。

重熙十一年(1042年)

  • 夏五月朔、日食。

重熙十二年(1043年)

  • 秋七月、契丹は使者を宋に遣わし、西夏の元昊を討伐すると告げた。宋は余靖を報使として遣わしこれを止めた。

重熙十三年(1044年)

  • 夏四月朔、日食。
  • この年、帝は弟の鄭王宗元に兵馬大元帥を加え晉國王に封じ、樂郡王宗德を豳王に、中山王宗正を魯王に、豫章王宗熙を齊王に、節度使宗哲を長沙王に、それぞれ進封した。

重熙十四年(1045年)

  • 春三月朔、日食。
  • 夏六月、流星が営室の南から出て杯ほどの大きさで、その光が地を照らし、隠然と音があった。

重熙十五年(1046年)

  • 東京留守の耶律忽札が高麗に叛入したため、將軍の蕭廸に命じてこれを誅させた。
  • 帝はつねに夜宴を開き、劉四端兄弟や王綱らとともに伶人の楽隊に入り、后妃に衣を替えさせて女道士に扮させた。后の父の蕭磨只が「番漢の百官がみな居並ぶ中、后妃が戯れに加わるのは相応しくないのではないか」と諫めると、帝は磨只を殴りつけて顔を傷つけ、「私自身がやっているのに、娘がどうだというのか」と言った。帝は絵に巧みで丹青を善くし、自ら描いた鵝や鴈の絵を宋朝に送ったところ点綴が精妙で真に迫っており、仁宗は飛白書を作って返礼した。当時南北は無事で、南宋から歳ごとに贈り物を受けること百四十~五十年に及び、内府の珍異の蓄えはまさに山のようであった。

重熙十六年(1047年)

  • 特に記載なし。

重熙十七年(1048年)

  • 春正月朔、日食。
  • 二月、彗星が虚宿に現れ、明け方東方に見え西南を指し、紫微垣を経て婁宿に至るまで、あわせて百二十四日で消えた。

重熙十八年(1049年)

  • 特に記載なし。

重熙十九年(1050年)

  • 特に記載なし。

重熙二十年(1051年)

  • 特に記載なし。

重熙二十一年(1052年)

  • 冬十月朔、日食。

重熙二十二年(1053年)

  • 夏四月朔、日食。

重熙二十三年(1054年)――帝の崩御

  • 夏、契丹主は使者を遣わし、自らの画像を宋に献じて仁宗の御容と交換し、兄弟の情を篤くすることを求めた。
  • 八月、国主が崩じた。在位二十五年、齢四十一。廟号は興宗、諡は文成皇帝。子の洪基が立ち、清寧と改元した。
  • これより先、日食が正陽に起こり、客星が昴宿に出現した。宋の著作佐郎劉羲叟は「興宗はまもなく亡くなるのではないか」と述べたが、果たしてその通りとなった。

史論

  • 契丹は阿保機以来五、六代を経て興宗に至った。この時代は太平が久しく続き、宋朝からの歳幣が積み重なって富み栄えた。四季の遊猟には「避暑」「釣魚」などそれぞれ定まった慣例があったが、狼のような貪欲さは際限を知らなかった。仏教はもとより虚無を旨とするはずが政事に絡み取られ、道教はもとより清浄を旨とするはずが貴顕の栄達に絡め取られ、伶人・楽工はもとより雑戯にすぎないはずが後宮の情に溺れさせ、後唐荘宗(同光)の轍を踏んで覆るところであった。二十余年の間、幸いにも大事に至らなかっただけで、そうでなければ危うかったであろう。