契丹國志卷十四 帝紀 穆宗皇帝
穆宗(諱璟、番名述律、後に明と改名、太宗の長子、951年–969年在位)。世宗弑殺後に迎立され應曆と改元。政務を顧みず酒色・遊猟に耽り「睡王」と呼ばれ、晩年は猜疑と残虐が募りついに弑殺された。廟号穆宗、諡天順皇帝。
出自と生い立ち
- 穆宗、諱は璟、番名は述律、後に明と改名。太宗の長子である。
- 太宗が石晋を攻めて大梁に入った際、璟は述律太后のもとに留め置かれた。
- 太宗は會同十一年(948年)四月、欒城で崩じた。諸将は述律太后の残虐を恐れて世宗を立てた。世宗が弑殺されると、諸将は共に璟を迎えて即位させ、應曆と改元した。
- 火神淀から幽州に入り、使者を北漢に遣わして即位を告げた。北漢主は樞密直学士王得中を遣わして即位を賀し、叔父として事え、晋州攻めの援兵を請うた。
- 帝は若く遊興を好み、国政に親しまず、毎夜酒を飲んで明け方に眠り、昼近くに起きるため、国人は「睡王」と呼んだ。
應曆元年(951年)
- 冬十月、遼は蕭禹厥に奚・遼の兵五万を率いさせ、北漢の兵と合わせて周を伐たせた。北漢主自ら兵二万を率いて晋州を攻め、三面に陣を布いて昼夜攻めた。巡検使王萬敢は都指揮使史彥超・何徽と共にこれを防いだ。
- 周の太祖は自ら澤州路より兵を率い、王峻と合流してこれを救援した。
- 十二月、周の王峻が晋州に至ると、遼・北漢の兵は夜のうちに逃げ去った。
- 北漢は土地が痩せ民は貧しく、内には軍国の費を賄い、外には遼への貢幣を奉じねばならず、賦役は重く民は生活に窮し、周の境へ逃げ込む者が多かった。
應曆二年(952年)
- 夏四月朔、日食。
- 六月、遼の幽州節度使蕭海真が内附を許し、周への降伏を請うたが、中国は多事のため実現しなかった。
- 秋九月、遼が冀州を攻めたが周軍に阻まれた。
- 冬十月、遼の瀛・莫・幽州で大水があり、流民数十万口が塞内に入ったが、遼はこれを禁じなかった。周は詔してその地で賑給・存処させ、中国の民で掠われて帰った者は十のうち五、六に及んだ。
應曆三年(953年)
- 春正月、遼が定州を攻めたが周将楊弘裕に敗れた。
- 夏六月、遼の張藏英が周に降った。
- 秋八月、周の太祖が風痺の病にかかり、術者が財を散じて禳うべきだと言ったため、社壇を築き、大梁に太廟を建てた。太祖は太廟を祀ったがわずか一室に及んだだけで拝礼できず退き、晋王榮に礼を終えさせた。この夜、南郊に宿し、ほとんど危篤となったが夜半にやや快方に向かった。
應曆四年(954年)
- 春正月朔、周の太祖は圜丘を祀ったが、ただ瞻仰して敬意を示すのみであった。晋王榮に内外の兵馬事を判じさせた。
- 太祖の病は篤くなり、晋王榮が入って侍したとき、繰り返し戒めて言った。「昔、私が西征したとき、唐の十八陵がすべて発掘されているのを見た。ほかでもない、金玉を多く納めていたためだ。私が死んだら紙の衣を着せ、瓦の棺に納め、壙中に石を用いず甓(瓦煉瓦)で代えよ。工人や役徒はみな雇用し、民を煩わせるな。葬儀が終わったら陵の近くの民三十戸を募り、雑徭を免じてそこを守らせよ。下宮を修めて宮人を置くことをせず、石の羊・虎・人・馬を作らず、ただ石に『周天子は平生倹約を好み、遺言により紙の衾・瓦の棺を用いた。嗣天子はあえて背かなかった』とだけ刻んで陵前に置け。もし背けば、私はお前を福せぬ」。
- この月、太祖崩ず。年五十一。晋王榮が立った。
- 二月、北漢主は周の太祖の崩御を聞いて大いに喜び、使者を遼に遣わして援兵を求めた。遼は武定節度使楊袞に一万騎を率いさせ晋陽に赴かせた。北漢主自ら兵三万を率い、遼軍と合流して潞州に向かった。節度使李筠が兵を率いて迎え撃ったが敗走した。
- 夏五月、周帝は潞州から晋陽に向かい、その城下に至って旗幟を城の周囲四十里に連ねた。遼将楊袞は奔り帰り、帝はその無功に怒って幽閉した。数千騎を忻・代の間に屯させ、周は符彥卿を遣わしてこれを撃った。遼兵は退いて忻口を守った。彥卿は勇に恃んで軽々しく進み、遼兵に敗れて死傷多数、彥卿は兵を引いて晋陽に還った。
- 冬十一月、北漢主劉旻が没した。子の承鈞は遼に喪を告げ、遼は帝として冊命した。北漢は遼に事えて上表するとき「男」と称し、遼が賜う詔では「児皇帝」と呼ばれた。
應曆五年(955年)
- 春二月朔、日食。
應曆六年(956年)
- 記事なし。
應曆七年(957年)
- 冬十一月、遼は侍中崔勳に兵を率いさせ、北漢と合流して周を共に攻めさせた。北漢は李存朅に兵を率いさせて合流し、南の潞州を侵して城下まで至り引き返した。北漢主は遼が頼みにならぬと知りつつも急には関係を絶てず、崔勳を厚く贈り送った。
應曆八年(958年)
- 夏五月朔、日食。
應曆九年(959年)
- 夏四月、周帝自ら遼を攻めるため出兵した。
- 五月、周将韓通が大軍を率いて至り、遼は瀛・莫・易・涿・雄・霸の六州を失った。瓦橋関は雄州として建てられ、容城・歸義の二県が隷属させられた。益津関は霸州として建てられ、文安・大城の二県が隷属させられた。いずれももとの遼の地であった。周帝は幽州に向かったが、病のため引き返した。
- 六月、周帝はその子宗訓を梁王に立てた。この月、周帝崩ず。年三十九。諡は世宗。子の梁王が立った。
- 秋九月、遼帝がその舅を南唐に使者として送ったところ、中国はこれを疑い憚った。泰州団練使荊罕儒は刺客を募り、これを殺させようとした。南唐は清風驛で夜宴を開いて遼の使者をもてなし、酒がまわった頃、使者は席を立って厠へ行くとして久しく戻らず、見ればすでに首を失っていた。これより遼と南唐の関係は絶えた。
應曆十年(960年)
- 春正月辛丑朔、北辺から遼と北漢が結んで境を侵したと奏があった。時に宋の趙太祖(趙匡胤)は周に仕えて殿前検点使であり、周帝は宿衛を統率させ、諸将にこれを防がせたが、陳橋驛に至ったとき諸将が趙太祖を推戴して帝に立て、国号を宋とし、建隆と改元した。周帝を鄭王として奉り、太后を周太后として、西京に移らせた。
- 夏五月朔、日食。
應曆十一年(961年)
- 夏四月朔、日食。
應曆十二年(962年)
- 記事なし。
應曆十三年(963年)
- 記事なし。
應曆十四年(964年)
- 記事なし。
應曆十五年(965年)
- 春二月壬寅朔、日食にあたるはずが虧けなかった。
應曆十六年(966年)
- 記事なし。
應曆十七年(967年)
- 春三月、五星が奎宿に集まった。
- 夏六月朔、日食。
應曆十八年(968年)
- 秋七月、北漢主劉承鈞が病に伏し、平章事郭無為を召して継恩の手を執り、後事を託した。継恩が嗣位し、承鈞を孝和皇帝と諡した。
- 九月、北漢主継恩は嗣位からわずか六十余日で郭無為に弑された。弟の継元が立ち、廣運と改元した。
- この月、宋軍が北漢の境に入った。北漢は遼に上表して援を求め、また将を遣わして団柏谷を扼させたが、宋将李継勳・何継筠らに銅鍋河で撃破された。北漢は再び攻め入り、晋・絳二州の境を大いに掠めた。
- この時、契丹は会同の余威を頼みに、中原は多事で藩鎮が争って強を求め、遼国に援を求めぬ者はなかった。晋陽の北漢、江南の李唐が使者を頻繁に往来させ贈り物を絶やさなかったが、遼帝は政治が乱れ兵が弱く、応じることができなかった。
- 帝は体が病弱で女性を見るのを嫌った。藩にあったとき、述律太后が妃を納めさせようとしたが、病を理由に断った。即位後も後宮に嬪御が満ちていたが、一顧だにしなかった。朝臣が椒房(后位)の不在を言う者があっても、みな拒んで受け入れなかった。左右の近侍・房帷の供奉はみな宦官であった。
- 遊猟を好み、真冬でも盛夏でも馳騁をやめなかった。万機の事は多く、蕃漢の諸臣が共にこれを統べたが、帝は意に介さなかった。京の東北に黑山・赤山・大保山という山があり、山水の景色が優れ麋鹿の群れが多く、四季に狩猟してこの山を離れなかった。瀛・莫の喪失を幽州が急使で報告すると、帝は「三関はもと漢の地、今それを漢に還したまで、何の損失があろうか」と言った。その怠慢ぶりはこの通りであった。
- 末年に至り、残忍さと猜疑心が募り、左右の者にわずかな過ちがあれば自ら手ずから刃を下すまでになった。数年の間、人々は身を縮めて息を潜め、みな禍を恐れた。ある時、酔って食を求めたが得られず、料理人を斬ろうとしたところ、給仕係が禍が及ぶのを恐れて食を捧げて進み、刃を挟んで黑山の下で帝を弑した。帝の在位は十九年、諡は天順皇帝、廟号は穆宗。
史論
- 論じて言う。英気に富み風雲を巻き起こす勢いがありながら、それだけでは足りなかった。酒に耽り日を空費し、禍敗に沈むには十分すぎるほどであった。太祖は辺境より奮い立ち中原を虎視し、太宗の偉大な資質は関河をたなごころに収めた。何と壮んなことか。だが一再の代を経て、世宗は声色に前を覆され、穆宗は淫蕩をもって後を継いだ。甲冑を脱いで閨房に籠もり、禍の端は肘腋より生じた。何と怯懦なことか。もとより驕り心を放ち、酒色と遊猟に耽り、滅びへの道は同じ轍を踏んでいる。陰山の異気に育まれた英霊も、ここに至って少し衰えたのであろうか。そうでなければ、これほどまでに愚昧になろうはずがあろうか。