契丹國志卷十三 行程錄・北語詩 王沂公・富鄭公・余靖・刁約

王沂公行程錄――使者の道筋

  • かつて宋の使者は幽州までしか行かなかったが、後には中京、さらに上京にまで至るようになり、西涼淀・北安州・炭山・長泊にまで足を伸ばすこともあった。
  • 雄州の白溝驛から河を渡り、四十里で新城縣(古の督亢亭の地)に至る。さらに七十里で涿州。北へ涿水・范水・劉李河を渡り、六十里で良鄉縣。盧溝河を渡り、六十里で幽州(燕京)に至る。
  • 子城は羅郭の西南に築かれ、正南の門を啟夏門といい、内に元和殿・洪政殿があり、東門を宣和という。城中の坊門にはみな楼がある。
  • 閔忠寺は唐の太宗が征遼の陣没将士のために建てたもの、開泰寺は魏王耶律漢寧が建てたもので、いずれも朝士が遊観に招かれる場所である。
  • 城南門外に于越王の邸があり、宴集の場となっている。門外の永平館はもと碣石館といったが、和議の後に改称された。南はすぐ桑乾河である。
  • 北門を出て、古長城・延芳淀を過ぎ、四十里で孫侯館(改めて望京館という。もとの場所から少し移った)に至る。楮谷山・五龍池を望み、溫餘河・大夏坡を過ぎる(坡の西北が涼淀で、避暑の地)。五十里で順州。
  • 東北へ白嶼河を過ぎ、北に銀冶山を望み、黃羅螺盤・牛闌山を経て、七十里で檀州に至る。ここから山中に入り、五十里で金溝館。館の手前は川原が広く、金溝淀と呼ばれ、国主が冬をここで過ごすこともある。
  • ここから山に入ると道は険しく曲がり、里程の目印もなくなるため、馬の行程日数で概算する。朝鯉河(七度河ともいう)を過ぎ、九十里で古北口。両側は峻崖で、中に道があるが車の轍がやっと通る幅しかない。口の北には見張り所があり、弓を張って縄を連ねる備えがある。もと范陽が奚・契丹を防ぐための拠点で、最も狭い要害の地である。しかし幽州から東の営州・平州へは道が平坦で、近年の侵犯はここから出ることが多い。
  • 德勝嶺(俗に思鄉嶺という)を越え、八十里で新館。雕窠嶺・偏槍嶺を過ぎ、四十里で臥如來館(山中に臥仏像があるための名)。烏灤河を過ぎる(東に灤州があり、この河にちなむ)。墨斗嶺(渡雲嶺ともいう。長さ二十里ほど)、芹菜嶺を過ぎ、七十里で柳河館(河が館のそばにある)。
  • 西北に鉄冶があり、多くは渤海人が住み、河で砂鉄を漉して鉄を鍊っている。渤海の風習では、年ごとの集いで楽を奏し、まず歌舞の巧みな者数人を先立てて男女が付き従い、代わる代わる唱和して旋回する。これを「踏鎚」という。住居はみな山の斜面に門を開く。
  • 松亭嶺(甚だ険峻)を過ぎ、七十里で打造部落館(番戸百余りのみで、荊を編んで籬とし、鉄を鍛えて武器を作る)。
  • 東南へ五十里で牛山館。八十里で鹿兒峽館。蝦蟆嶺を過ぎ、九十里で鐵漿館。石子嶺を過ぎるとここから山を出はじめ、七十里で富谷館(住民は多くが車を作る渤海人という)。正東に馬雲山を望む(禽獣・林木が多く、国主がしばしば狩りをする所)。
  • 八十里で通天館。二十里で中京大定府に至る。城壁は低く小さく、方円わずか四里ほど。門は重屋のみで築闍の制はない。南門を朱夏門といい、門内は夾道の歩廊で坊門が多い。市楼が四つあり、天方・大衢・通闤・望闕という。次いで大同館があり、その北門を陽德門・閶闔門という。城内西南隅の岡の上に寺がある。城南には園圃があり、宴射の場となっている。
  • 古北口を過ぎるとそこはすでに蕃境である。住民は草庵・板屋に住み、耕作にも努めるが桑柘はなく、種は隴の上に植える(風が砂を吹き寄せるのを恐れるため)。山中には松の大木が茂り、深い谷では炭焼きを業とする者が多い。牛・馬・橐駝などの家畜がしばしば見え、とりわけ青羊・黄豕が多く、車帳を携えて水草を追い狩猟する者もいる。食は麋の粥や炒った糒に止まる。

富鄭公行程錄――北朝への使い

  • 富鄭公(富弼)が北朝に使いした際、中京から正北へ八十里で臨都館。さらに四十里で官窑館。七十里で松山館。七十里で崇信館。九十里で廣寧館。五十里で姚家寨館。五十里で咸寧館。三十里で潢水の石橋を渡る(傍らに饒州があり、もと唐が契丹に置いた饒樂州で、今は渤海人が住む)。五十里で保和館。
  • 黑河を渡り、七十里で宣化館。五十里で長泰館(西二十里ほどに仏寺と民舎があり、祖州といい、祖山もある。山中に阿保機廟がある)。四十里で上京臨潢府に至る。
  • 崇信館を過ぎるとそこから契丹の旧境で、その南は皆奚の地である。
  • 西門(金德門)から入ると内に臨潢館がある。子城の東門を順陽門といい、そこから北へ進むと景福門、さらに承天門があり、内に昭德殿・宣政殿の二殿があって、いずれも東向きである。氈廬もみな東を向く。
  • 臨潢の西北二百余里に涼淀という地があり、漫頭山の南にあって避暑の地となっている。豊かな草地が広がり、丈余り掘るとすぐに堅い氷にあたるという。

余尚書北語詩――余靖と契丹語の詩

  • 尚書余靖が契丹に使いした際、契丹語の詩を作り、契丹の人々はこれを愛した。再訪した際にはますます親しまれた。
  • 余靖の詩は次のようなものであった(契丹語の音を漢字で表したもの)。「夜筵設罷臣拜洗、兩朝厥荷情幹勒。微臣稚魯祝若統、聖壽鐵擺俱可忒。」
  • 国主が大杯を挙げて余靖に「これを唱えられるなら、卿のために飲もう」と言い、再び杯を挙げると国主は大笑いし、そのまま酬盃となった。

刁奉使北語詩――刁約の詩

  • 刁約が契丹に使いした際にも契丹語の詩を作った。「押燕移離畢、看房賀跋支。餞行三匹裂、密賜十貔貍。」