契丹國志卷十二 奚國

奚國

  • 太祖は興隆の初め、奚を撃ってこれを滅ぼしたが、改めて奚王を立て契丹にその兵を監督させた。のちに中京となった。詳細は前の志を参照。

古肅慎國

  • 古の粛慎城は方五里の広さで、渤海国から三十里の位置にあり、遺構の城壁が今も残る。

室韋國

  • 「室」は「失」とも表記され、契丹の同族で、南に住む者を契丹、北に住む者を室韋と呼んだ。和龍から北へ千余里の道を進むと契丹国に入る。奚・契丹と同様の風習を持つ。夏は城に居り冬は水草を追って移動し、南室韋と北室韋がある。風俗として男は皆髪を垂らし、女は皆髪を結い上げ、衣服は契丹と同じで牛車に乗り、蘧蒢(あじろ)を編んで屋根とし氈車のような形をしている。川を渡る際は薪を束ねて筏とし、あるいは皮の舟を用いることもある。馬には草を編んだ鞍敷きと縄の轡を用いる。気候は寒さが厳しく収穫は乏しい。麞や鹿を狩ることを生業とし肉を食べ皮を着る。氷に穴を開けて水中に潜り網で魚や鼈を捕る。地には雪が多く積もり陥没を恐れて木製の履物(かんじき)を履いて歩く。太祖が三十六の諸蕃国を併合した際、室韋もその中に含まれた。

新羅國

  • 新羅は高麗の東南、もと漢代の楽浪の地にあった。言語・名称は中国に似た部分があり、「国」を「邦」、「弓」を「弧」、「賊」を「寇」、「行酒」を「行觴」と呼び、互いを「徒」と呼び合う。文字・甲兵の制度も中国と同様である。壮健な者を選んで軍に入れる。毎月一日に相賀し、王は宴会を設け群臣に賜り物をする。大事があれば官が集まり詳議して決める。田地は肥沃で水陸両方の作物を植える。服色は白を尊び、婦人は髪を編んで頭に巻きつけ雑綵や珠で飾る。婚姻には酒食を用いるのみで、その多寡は貧富に応じる。新羅国王誦は、契丹の承天皇后が初めて臨朝した際から朝貢を始めた。のち王誦は部下に殺され弟の詢が立った。契丹は王詢が朝貢しないことを理由に北討の兵を興し、十年を経てようやく兵を止め、新羅は元通り朝貢するようになった。

高昌國

  • 高昌は交河城を都とし、漢の車師前王の王庭であった地である。四方に大山が多く、晋はその地を高昌郡とした。地は砂礫地だが気候は温暖で土地は肥沃、麦は一年に二度実り養蚕にも適する。羊刺という草があり、その上に蜜を生じ味は非常に良い。水を引いて田を灌漑する。赤塩を産し味は非常に美味である。風俗は天神を祀り、あわせて仏法を信じる。官制には八人の長史、五人の将軍のほか侍郎・校郎・主簿・従事などの階位が順に置かれる。契丹の代には三年に一度朝貢し、玉・珠・乳香・斜合・黒皮・褐里糸などを献上した。互市(交易)も行われ、その国主自ら北主と価格を評議したという。

女眞國

  • 女真は代々混同江の東の山に居住し、そこが鴨淥水の源である。東は海に面し、南は高麗に隣り、西は渤海に接し、北は室韋に近い。その地はもと粛慎の故地である。地は数千里四方、戸口は十余万、大きな君長は持たず首領を立てて各部落を分治する。山林に富み麻・穀物の栽培に適し、人参・蜜蝋・北珠・生金・細布・松実・白附子を産し、禽には鷹・鸇・海東青の類、獣には牛・馬・麋・鹿・野犬・白猪・青鼠・貂鼠が多い。のち契丹に統制され、その酋長を世襲させた。契丹は長春路に東北統軍司、黄龍府に兵馬都部署司、咸州に詳穏司を置いて分轄させ、女真は契丹に服属した。その後、契丹はたびたび銀牌天使を女真に遣わし、夜ごと女性の侍寝を求めるようになり、女真は中下の家に接待を義務づけ未婚の娘を待たせていたが、のちには海東青を求める使者が引きも切らず、美しい女性であれば夫の有無や家柄を問わず求めるようになったため、女真は次第に憤りを募らせ、ついに叛くに至った。

黃頭女眞

  • 黄頭女真は皆山に住み「合蘇館女真」と呼ばれる。合蘇館は河西にも存在し、八館が黄河の東にあり金粟城・五花城と河を隔てて近接する。人々は素朴で勇猛だが生死の区別を弁えぬほどで、契丹は出兵のたびに彼らに重い甲を着せ先鋒として使った。髭や髪は皆黄色で瞳は緑色が多く、あるいは黄色や白色も多い。

嗢熱國

  • 嗢熱は最も小さな国で、もとの居所は不明である。太祖が黄龍府の南百余里、賓州の地へ移住させた。賓州は混同江(古の粟末河、黒水)に近い。部落は雑居し、その一族の長を千戸として契丹の統轄下に置いた。女真の貴族の子弟や富家の子が月夜に酒を帯び連れ立って馬を馳せこの地で戯れ飲むことがあり、婦女はその来訪を聞くと多く集まって見物し、時には侍座させられ酒を勧められれば飲み、歌舞で酌をする者もいた。意気投合すれば戯れの掛け合いの末にそのまま連れて帰ることもあり、女の父母もそれを咎めなかった。数年ともに暮らし子ができると茶食や酒を何台もの車に積んで里帰りする「拝門」の儀礼を行い、婿としての礼を執った。この風俗では男女が自ら結ばれることを、結納による正式な婚姻よりも良いものとした。飲食には木製の器を用い、蠱毒を仕込むことを好んだが、その毒を無効化したい者は器の上で三度指を弾けば毒が自然に解けるとされ、それでも毒に当たって死ぬ者もあった。この一族には李姓が多い。

渤海國

  • 渤海国は燕京から東北へ千五百里、石を積んで城壁の基礎とし東は海に面する。その王は古くは大を姓としたが、有力な姓には高・張・楊・竇・烏・李の数種があるのみで、部曲・奴婢で姓のない者は主人の姓に従った。婦人は悍妬な性格の者が多く、他姓の女同士で「十姉妹」と結んで互いに夫を見張り合い、側室や外遊を許さず、聞けば必ず毒を盛る策を巡らせ夫の愛人を死に至らしめた。夫が過ちを犯しても妻が気づかない場合、周囲の女たちが集まってこれを罵り、嫉妬深さを競い合うほどであった。男は知略に富み勇猛さでは他国にまさり「渤海人三人で虎一頭に匹敵する」との言葉もあったほどである。天祚帝の乱以降、金人が城を陥落させると統制の難しさを恐れ他所へ移されたため、住民は大いに恨みを抱いた。富裕な家は二百年余り安住し、園池を造り牡丹を植え多いところでは二、三百株にも及び、数十本もの株が群生するものもあった。これは燕地にはない光景で、わずか一万数千文あるいは五千文ほどの安値で買われて持ち去られた。故地に残った者はそのまま契丹の統治下に入り、旧地は東京とされ留守が置かれ、蘇州・扶州などがあり、蘇州は宋の登州・青州と海を挟んで相対し、大風が順風となる日には犬や鶏の鳴き声がかすかに聞こえたという。