契丹國志卷十一 胡嶠陷北記

胡嶠陷北記

  • 同州郃陽県令の胡嶠は契丹に七年間抑留され、後周の広順三年(953年)に中国へ逃げ帰り、見聞をおおよそ語った。
  • 幽州から西北へ居庸関に入り、翌日さらに西北へ石門関に入った。関の道は崖が狭く一人で百人に当たれるほどの険しさで、中国が契丹を防ぐ要害であった。さらに三日で可汗州に至り、南に五台山を望むと最も高い峰が東台であった。さらに三日で新武州に至り、西北五十里に雞鳴山があり、唐の太宗が北伐の際にここで鶏鳴を聞いたことに由来するという。翌日、唐の旧関である永定関の北に入り、さらに四日で帰化州に至った。さらに三日で天嶺に登ると、嶺は東西に連なり北へ下る道があり、四方を見渡しても果てなく黄雲と白草が広がるばかりであった。契丹の者は胡嶠に「これは辞郷嶺という、一度南を望んでこれを永訣とせよ」と告げ、同行の者は皆慟哭し気を失っては蘇生する有様であった。
  • さらに三、四日で黒楡林に至った。七月であったが真冬のような寒さであった。翌日、長さ五十里の斜谷に入ると、高い崖と険しい谷で仰いでも日が見えず一段と寒かった。谷を出て平地に至ると気温はやや上がった。さらに二日で湟水を渡り、翌日黒水を渡り、さらに二日で湯城淀に至った。ここは最も温暖な地で契丹は厳寒の際にここで暖を取るという。水泉は清らかで草は絨毯のように柔らかく寝床にできるほどで、珍しい花も多かった。「旱金」(掌ほどの大きさで金色に輝く花)と「青囊」(中国の金灯花に似て藍色の花)の二種が記されている。
  • さらに二日で儀坤州に至り麝香河を渡った。幽州からここまでは里程標がなく方角も定かでなかった。さらに二日で赤崖に至った。蕭翰は世宗兀欲と合流し述律后を攻め、沙河で戦って述律の軍は敗れ北へ逃げたが、兀欲は独樹渡まで追撃し述律を撲馬山に幽閉した。
  • さらに三日で上京、いわゆる西楼に至った。西楼には市街と店舗があり、交易には貨幣を用いず布を用いていた。綾・錦の職人、宦者、翰林、伎術、教坊、角觝、秀才、僧尼、道士などがおり、いずれも中国人で并州・汾州・幽州・薊州出身の者が特に多かった。
  • 上京から東へ四十里で真珠寨に至り、そこでようやく野菜を口にした。翌日さらに東へ進むと地勢は次第に高くなり、西方には平地の松林が数十里にわたり鬱蒼と続くのが望めた。平川に入ると草木が多く、西瓜を初めて食した。契丹が回紇を破った際にこの品種を得て牛糞で棚を覆って栽培したもので、中国の冬瓜ほどの大きさで味は甘いという。さらに東へ進み褭潭に至ると初めて柳の木があり水草も豊かで、「息鶏草」という特に美味な草があり、馬はこの草を十本も食べれば満腹になるほど本が大きいという。
  • 褭潭から大山に入り十余日行ってようやく抜けた。長さ二、三里の大きな林を過ぎたが、すべて蕪荑(にれ)で枝葉には矢羽のような棘があり、その地には草がなかった。兀欲がこの地に帳を張り諸部の人々を集め太宗を葬った。ここから西南へ一日六十里の行程で七日行くと大山門に至り、二つの高い山が一里ほど離れて対峙し、長松・豊草・珍禽・異獣・野草が茂り、家屋と碑石があって「陵所」と呼ばれた。兀欲がここで祭祀を行い、諸部の大人のうち祭器を執る者だけが入ることを許され、入ると門が閉ざされた。翌日開門する儀礼を「抛盞」と呼び、これで儀式は終わる。その礼の内容を尋ねてもすべて秘匿され語られなかったという。胡嶠が実見した述律后の幽閉や太宗埋葬の様子は、中国の記録とは食い違う点があった。
  • その後、蕭翰が罪を得て鎖につながれると、胡嶠は蕭翰の部曲とともに東の福州へ向かった。福州は蕭翰の治める地であった。途中、十三山という山を過ぎ、これは幽州から西南へ二千里の位置にあるという。さらに東へ数日行くと衞州を過ぎ、そこには三十余家の住民がおり、契丹が捕虜にした中国の衞州人が城を築いて住んでいた。福州に着くと契丹の人々は胡嶠を憐れみ逃亡を勧めてくれ、胡嶠は諸国の種族と遠近について聞くことができた。
  • 契丹国から東へ海に至るまでには鉄甸があり、皮の帳で野居する剛勇な人々が住む。土地は草木少なく水は塩辛く濁って血のような色をしており、澄ませてからでないと飲めない。さらに東の女真は弓射に長け牛・鹿・野犬が多い。定住せず牛に荷を負わせて移動し、雨が降れば革を張って屋根とする。鹿の鳴き真似で鹿を呼び寄せて射て生肉を食べる。糜(きび)を醸して酒を造り、酔うと縛って眠らせ、醒めてから解く。そうしなければ人を殺すこともあるという。さらに東南に渤海、東に遼国があり、いずれも契丹とほぼ同様の風俗である。その南の海辺には魚塩の利がある。さらに南に奚があり契丹とほぼ同様だが人は殺戮を好む。さらに南は榆関に至る。西南は儒州に至り、いずれも昔の漢地である。西は突厥・回紇の地。西北は嫗厥律に至り、その人々は長身で髪を結い上げ、酋長のみ髪を伸ばし紫の袋に納める。土地は寒く水には大魚がいて契丹の食を支え、黒・白・黄の貂鼠皮も多く産し北方諸国はこれに頼っている。人は非常に勇猛で近隣国も侵犯を恐れる。さらに西は轄戞、さらに北は単于突厥で、いずれも嫗厥律とほぼ同様である。さらに北は黒車子で車や帳の製作に長け、孝義を知るが土地は貧しく産物が乏しい。契丹の先祖はかつて回紇に使役されていたが後に背いて黒車子に逃れ、そこで車帳の製法を学んだという。さらに北は牛蹄突厥で、人の体に牛の足を持つとされる。土地はさらに寒く瓠河という川があり夏秋でも氷の厚さ二尺、春冬は底まで凍り、常に器を焼いて氷を溶かして飲むという。東北は韈刼子に至り、髪を結い上げ布を纏い鞍なしで乗馬し大弓長箭で弓射に長け、人に会えば殺して生肉を食べるため契丹などの国も恐れ、契丹の五騎が韈刼子一人に出会えば皆逃げ散るという。その国は三方を室韋(室韋・黄頭室韋・獣室韋の三種)に囲まれ、銅・鉄・金・銀を多く産し、人々は器用で銅鉄の器も精巧、毛織の錦を織るのにも長ける。土地は非常に寒く馬の尿も地に落ちるとすぐ凍って山になるという。さらに北は狗国といい、人の体に犬の頭を持ち長毛で衣を着けず素手で猛獣と格闘し犬の吠え声のように話すが、妻は皆人間で漢語を話し、生まれた男児は犬、女児は人間となり互いに婚姻するという。穴居して生食し、妻子だけは人の食を食べる。かつて中国人がこの国に至った際、その妻が哀れんで逃がし、筋(すじ)十余本を持たせ十余里ごとに一本ずつ落とすよう教えたところ、狗の夫が追いかけ自分の家の物を見ると必ず銜えて持ち帰ろうとするため追いつけなかったという逸話も伝わる。
  • また契丹はかつて一日百里を走る馬二十匹を選び、十人に乾糧を持たせ北方へ探索に遣わしたことがあった。彼らは黒車子から牛蹄国を経てさらに北へ一年かけて進み、四十三の城を経て、住民は多く木の皮で屋根を葺いていた。言語は通訳できる者がなく、その国の地理・山川・部族の名も分からなかった。気候は平地では温暖だが山林では厳寒であった。三十三番目の城で鉄甸の言葉を話せる者に会い、多少通じたところによれば地名は頡利烏于邪堰といい、「これより北は龍蛇・猛獣・魑魅が群れをなし進めない」と言われ、そこで引き返した。これが北方の果てであるという。
  • 契丹の者は胡嶠に「夷狄の者がどうして中国に勝てようか。しかし晋が敗れたのは主君が暗愚で臣が不忠だったからだ」と語り、諸国の事情を詳しく話した上で「お前は帰ったら漢人にすべて語り、漢人が主君に力を尽くし夷狄に虜にされぬようにさせよ、我が国は人の住む土地ではない」と告げた。胡嶠は帰国後これを記録に残したという。

張舜民使北記

殺狐林

  • 契丹主太宗は晋の出帝が北朝の命に従わず勝手に帝位に就いたことに怒り、自ら兵を率いて南下し出帝と母・后・大臣を捕らえて北へ連れ帰った。鄴の西、愁死崗で病を得て、欒城の殺狐林で崩じた。愁死崗はもと陳思王(曹植)が文帝に容れられずここで悲吟したことから「愁思崗」と呼ばれたのが訛って「愁死」となったもので、殺狐林は村民がこの林で狐を射殺したことに由来する地名である。

兜玄国

  • 契丹の上京で、ある人が突然、赤い子牛に乗った二人の青衣の者が耳の中から出てくるのを見たといい、その先には別天地があり花木が繁茂していたという。これを「兜玄国」と呼んだという逸話が伝わる。

割馬肝

  • 張舜民が契丹に使いした際、耶律永興・姚跋洄の二人が接伴役を務めた。舜民が「北方の馬には肝を割いて取り除くと病がなくなり良く走れるようになるというのは本当か」と尋ねると、「本当である。強い酒を飲ませ脇の下を切開し少量の肉を取り除く方法だが、十頭のうち八、九頭は死んでしまう」と答えたという。

雕窠生獵犬

  • 舜民がさらに「北方では鵰(わし)の巣から猟犬が生まれるというのは本当か」と尋ねると、「それもある、ただし極めて得難い。今、御前に二頭おり、性質はかなり異なり、狩りの成果は普通の犬の十倍にもなる」と答えたという。

吹葉成曲

  • 胡人は木の葉を吹いて曲を奏で、蕃の歌に合わせるが、その音韻は大変調和していたという。

銀牌

  • 銀牌は方響(打楽器)のような形をしており蕃文字で「宜速」の二字が刻まれている。使者がこの牌を持って馬を馳せると一日数百里を進み、牌の至るところではあたかも国主自らが来たかのように扱われ、求めに応じないものはなかったという。

佛妝

  • 北方の婦人は黄色い顔料を金のように塗る化粧をしており、これを「仏粧」と呼んだ。

以車渡河

  • 盧溝河を渡る際、接伴の使者が「轎(かご)に乗るのは危ういので車で渡る方が安全で速く渡れる」と言った。南人(宋人)はその方法を知らなかったという。