契丹國志卷二 帝紀 聖宗皇帝

聖宗(諱隆緒、景宗の長子、972年–1031年)。十二歳で即位し統和と改元、母の承天太后蕭氏が二十七年にわたり臨朝称制した。宋との間で澶淵の盟(1004年)を結び長期の和平を築いた守成の令主。廟号聖宗、諡天輔皇帝。

年表(7件)

出自と生い立ち

  • 聖宗の諱は隆緒、景宗の長子。十二歳で即位し統和と改元した。母の蕭氏を承天太后として尊び、二十七年にわたり臨朝称制したのち帝に政を返した。宋の楊業陥落、康保裔・王継忠の敗戦、澶淵の役はいずれも統和二十五年より前の出来事で、この間三、四度の大戦があり帝も自ら陣頭に立ったが、実際にはなお太后が政を握っていた。

統和元年(983年)

  • 帝は即位し、国号を大契丹に戻した。
  • 春二月朔、日食があった。

統和二年(984年)

  • 特記事項なし。

統和三年(985年)

  • 冬十二月朔、日食があった。

統和四年(986年)

  • 春正月、宋の曹彬らが三方から契丹を攻めた。曹彬は涿州を落とし、田重進は飛狐・霊邱二県および蔚州を落とし、潘美は雲・寰・朔・応の四州を落とした。宋はまもなく潘美・楊業に命じ四州の民を許州・汝州の間に移させたが、西南面招安使大鵬翼、監軍馬頵、副将何万通が契丹に捕らえられた。曹彬らも新城・固安を得て涿州を取ったが糧食が続かず岐溝関北まで退き、契丹軍の追撃を受けて大敗した。
  • 六月朔、日食があった。
  • 秋八月、蕭太后は耶律漢寧・南北皮室・五押惕隠らとともに十余万を率い、再び寰州を取って宋の楊業を捕らえた。楊業は宋の雲・朔・寰・応四州の民を許州・汝州へ移す護送を任されていたが契丹に迎撃され、日中から日暮れまで力戦し数百人を斬ったものの馬が重傷を負って進めなくなり捕らえられた。楊業は「主上は私を厚遇された、どうして虜中で生き恥をさらせようか」と嘆じ、三日間絶食して死んだ。麾下の百余人も業に諭されながら感泣して離れず、共に死に生還した者はいなかった。
  • 十二月、契丹は楊業を破った勢いで耶律遜寧(号は于越)に数万騎を率いさせ瀛州を取った。宋の部署劉廷譲が防戦に赴き君子館で戦ったが、酷寒で宋軍は弓弩を引けず契丹軍に幾重にも包囲され、援軍もなく全軍が敗没、廷譲だけが逃れた。平州団練使賀令図・高陽関部署楊重進も陥落した。契丹はますます勢いを増し深州・祁州まで深く侵入、易州を陥落させ魏州・博州の北一帯が被害を受けた。
  • 契丹は代州を攻めたが守臣張斉賢の伏兵に敗れて退いた。

統和五年(987年)

  • 春正月、契丹は深州・祁州・徳州・易州の四州を陥落させた。

統和六年(988年)

  • 冬十一月、契丹の大軍が唐河北に迫り宋を攻めようとしたが、定州都部署李継隆と監軍袁継忠に防がれ敗績した。

統和七年(989年)

  • 秋七月、彗星が東井に現れ三十日にわたって見えた。
  • 契丹は威虜軍を攻めたが宋の尹継倫・李継隆に唐河・徐河の間で敗れ、契丹の宰相皮室が殺され大将于越も傷を負って敗走、多くが捕虜となった。以後契丹は大規模な侵入をしなくなった。契丹人は継倫の色黒い顔を恐れ「黒面大王を避けよ」と言い合ったという。
  • 九月、鎮星(土星)と熒惑(火星)が南斗に入った。

統和八年(990年)

  • 特記事項なし。

統和九年(991年)

  • 春閏月朔、日食があった。
  • 冬十二月、女真は契丹兵に宋への貢納路を塞がれ、宋に契丹討伐を求めたが許されなかった。以後女真は契丹に属した。

統和十年(992年)

  • 春二月朔、日食があった。

統和十一年(993年)

  • 秋八月朔、日食があった。

統和十二年(994年)

  • 冬十二月朔、日食があったが陰雪のため見えなかった。

統和十三年(995年)

  • 春正月、契丹は振武方面から侵攻したが府州の折御卿に子河汊で敗れ死傷者が多かった。
  • 夏四月、契丹は雄州を攻めたが守臣何承矩に敗れた。

統和十四年(996年)

  • 特記事項なし。

統和十五年(997年)

  • 春三月、宋の太宗が崩じた。

統和十六年(998年)

  • 春二月、彗星が営室の北に現れた。
  • 夏五月朔、日食があった。
  • 冬十月朔、日食があった。

統和十七年(999年)

  • 秋九月朔、日食があった。
  • 冬十二月、契丹が宋に侵攻し宋の真宗が親征、澶州に留まった。契丹は冀州の知事張旻に城南で敗れ、大名府に迫ったが知府の折惟昌に五合川で敗れた。

統和十八年(1000年)

  • 春正月、宋の真宗が大名府に留まった。
  • この年、宋の定州都部署范廷召が中山から侵攻し、高陽関都部署・彰国節度使康保裔に援軍を求めた。保裔は兵を率いて赴いたが瀛州西南の裴村で、廷召の後陣が先に契丹軍と遭遇、保裔が精鋭を選んで廷召に加勢する間に日が暮れ、廷召は密かに軍を退かせて逃げた。保裔はこれに気づかぬまま夜明けに契丹軍に幾重にも包囲され、数十合戦って矢種が尽き討ち死にした。契丹軍はそのまま徳州・棣州から黄河を渡り淄州・斉州を掠めて帰った。

統和十九年(1001年)

  • 冬十月、契丹は宋に侵攻したが張斌に長城口で敗れ、続いて李継宣に牟山谷で敗れた。

統和二十年(1002年)

  • 秋七月朔、日食があった。

統和二十一年(1003年)

  • 春三月、契丹が宋を攻め、宋の定州行営都部署王超・鎮州桑賛・高陽関周瑩が望都県で迎え撃った。翌日、県南六里で副部署王継忠が麾下を率いて死戦した。継忠は日頃儀服を華美にしていたため契丹に見分けられ数十重に包囲され、戦いながら西山沿いに北へ移動し白城に至って契丹に捕らえられた。
  • 冬十一月、彗星(星孛)が井宿・鬼宿に現れた。

統和二十二年(1004年)

  • 春三月、契丹が宋に侵攻したが魏能に長城口で敗れた。
  • 秋閏九月、帝は母の蕭太后とともに大挙して辺境を攻め、統軍順国王撻覧に威虜軍・安順軍を攻めさせたが先鋒が魏能に敗れた。北平寨を攻めたが田敏らに撃退された。ついで東の保州に向かい攻めたが落とせず、帝と蕭太后は兵を合わせて定州を攻めたが、宋将王超は唐河に陣を布いて出撃せず、契丹軍は陽城淀に駐屯した。また兵を分けて岢嵐軍を包囲したが守臣賈宗に撃退された。
  • 冬十月、瀛州を攻めたが守臣李延渥に敗れ、死者三万余、傷者はその倍に及び撤退した。
  • 契丹は宋に議和を求め、宋は崇儀副使曹利用を軍前に遣わして交渉させた。先の望都の戦いで捕らえた王継忠がのちに契丹に登用され和議の利を説き、老齢で厭戦気味であった太后もこれを容れて小校李興ら四人を継忠の書とともに宋に遣わした。莫州部署石普が朝廷に奏上し、真宗は自ら詔を継忠に諭した。継忠が先に使者を求めたことに応じ、曹利用が遣わされた。
  • 契丹は瀛州から三十万の兵で貝州・冀州・天雄軍を衝こうとした。天雄軍は城を挙げて動揺したが伏兵が功を奏し、契丹軍は退却する際十のうち三、四しか帰れなかった。契丹軍は徳清を陥し、知軍・尚食使張旦や胡福ら十四人が死んだ。
  • 契丹は徳清を陥した後、澶州北まで進み三方から包囲した。宋の李継隆らが陣を整えて防戦、統軍順国王撻覧は床子弩(大弩)で額を射抜かれ死んだ。契丹軍は大いに挫かれ動けなくなった。
  • 十一月、宋の真宗が自ら澶淵に出陣した。曹利用の交渉はすでに契丹に通じており、契丹は左飛龍使韓杞に国書を持たせ関南の地の返還を求めた。宋帝は「その要求は名分がなく、もし強いて求めるなら決戦するまでだ。ただ河北の民の労苦を思い毎年金帛で助けることは朝廷の体面を損なわない」と述べ、曹利用と韓杞に細目を任せた。曹利用は幾度か往復し、契丹は絹二十万疋・銀十万両の歳賜を得ることで合意、両者は兄弟の礼で結ばれることとなった。宋は李継昌・姚柬之を国書とともに遣わし、契丹は丁振に誓書を持たせて宋に送り、以後契丹は撤兵し二度と侵犯しなかった(澶淵の盟)。
  • 宋真宗が澶州に到着した際、寇準が渡河を強く勧め、高瓊が輦を進めさせ、北城門楼に登り黄龍旗を掲げると諸軍は万歳を唱え数十里に響き、契丹側は震え上がったという。曹利用が和議の金帛の額を伺うと宋帝は「やむを得なければ百万でもよい」と答えたが、寇準は利用に「勅旨があっても三十万を超えてはならぬ、超えれば斬る」と釘を刺し、利用は契丹との交渉でも結局その額に収めて戻った。
  • 十二月朔、日食があった。
  • 宋の真宗が澶州から帰還した。

統和二十三年(1005年)

  • 春二月、宋は孫僅を契丹に遣わし国母(承天太后)の誕生日を祝わせた。
  • 秋八月、彗星(星孛)が紫微に現れた。

統和二十四年(1006年)

  • 特記事項なし。

統和二十五年(1007年)

  • 夏五月朔、日食があった。

統和二十六年(1008年)

  • 特記事項なし。

統和二十七年(1009年)

  • 特記事項なし。

統和二十八年(1010年)

  • 夏六月、契丹は使者を宋に遣わし食糧の売却を求め、宋は雄州に命じ粟二万石を安値で放出し賑わせた。
  • 冬十一月、契丹は高麗を討ったが高麗は女真と合兵してこれを退け、契丹軍は敗れた。

統和二十九年(1011年)

  • 特記事項なし。

統和三十年(1012年)

  • 秋八月朔、日食があった。

開泰元年(1012年)

  • この年、契丹は幽州を析津府とした。
  • 冬十二月朔、日食があった。

開泰二年(1013年)

  • 特記事項なし。

開泰三年(1014年)

  • 夏六月朔、日食があった。

開泰四年(1015年)

  • 特記事項なし。

開泰五年(1016年)

  • 特記事項なし。

開泰六年(1017年)

  • 夏六月、彗星が北斗に現れた。

開泰七年(1018年)

  • 春三月朔、日食があった。

開泰八年(1019年)

  • 特記事項なし。

開泰九年(1020年)

  • 秋七月朔、日食があった。

太平元年(1021年)

  • 春二月、宋の真宗が崩じ、子の仁宗が即位した。

太平二年(1022年)

  • 特記事項なし。

太平三年(1023年)

  • 特記事項なし。

太平四年(1024年)

  • 特記事項なし。

太平五年(1025年)

  • 冬十月朔、日食があった。

太平六年(1026年)

  • 冬十二月、宋の龍図待制孔道輔が契丹に使いした際、優人(芸人)が孔子(文宣王)を戯れの種にしたことに憤然として席を立った。契丹側が呼び戻して謝罪を求めると、道輔は「中国と北朝は礼をもって通好している。俳優が先聖を侮ってこれを禁じないのは北朝の過ちだ、なぜ私が謝る必要があるのか」と応じ、契丹の君臣は黙り込んだ。さらに大杯を勧められ「寒さしのぎに飲めば和気が生まれる」と言われても「和がなくとも害はない」と断った。以後、中国からの使者は侮られなくなった。道輔は孔子四十五代の孫である。

太平七年(1027年)

  • 春三月朔、日食があった。
  • 夏四月、斗ほどの大きさの星が現れ雷のような音を立てて北から西南へ流れ、光が天を照らし尾は数丈に及び、しばらくして蒼白い雲となって散った。

太平八年(1028年)

  • 春三月、契丹は飢饉となり流民が宋の境まで及んだ。宋の仁宗は「皆わが赤子である、救わずにいられようか」と述べ、唐州・鄧州の間の田を与え、通過する州県に食糧の給付を命じた。
  • 秋八月朔、日食があった。

太平九年(1029年)

  • 特記事項なし。

太平十年(1030年)

  • 先に太后が政を返す前、帝はすでに成長していたが常に控えめであった。府庫から一物を出すにも用途を問い質し、文武百官への下賜も許可を得てから行い、許されなければ与えなかった。
  • 帝は政に関与できず狩猟に心を遊ばせ、左右の側近と戯れることを太后に知られると厳しく杖責を受け、帝自身も詰問を免れなかった。御服・御馬さえ太后の検分を受け、宮嬪の讒言があれば太后はそれを信じて帝を庭で叱責したが、帝は常に従順で怨言を漏らさなかった。帝は『貞観政要』を好んで読み、唐太宗・玄宗の実録には深く敬服し、自らの諱にも玄宗の名の一字を連ねたほどであった。また自ら契丹文字で白居易の『諷諫集』を訳し、諸臣に読ませ「五百年来の中国の英主は、遠くは唐の太宗、次いで後唐の明宗、近くは今の宋の太祖・太宗である」と語った。諸道からの貢進の珍品も一切受け取らず弟に譲った。親政わずか一月ほどで太后が急逝すると、帝は悲しみのあまり痩せ細り血を吐くほど哭泣した。番漢の群臣が山陵の儀が終わったので改元すべきと進言すると、帝は「改元は吉礼である。喪中に吉礼を行うのは不孝者のすることだ」と述べ、群臣が「古の帝王は日をもって月に代える故事があり、古制に倣うべきです」と言っても、帝は「私は契丹の主である。古制に背いても不孝者にはならぬ」と述べ、三年の喪に服した。
  • 丞相耶律隆運(もとの漢人の姓は韓、名は徳讓)は、太后に辟陽侯のような寵愛を受け耶律姓を賜り隆運と改名、大丞相・晋王に封じられた。景宗の崩御後、太后が臨朝すると隆運は私的にこれに仕えた。当時太后はわずか三十歳、諸子はまだ幼く外に頼れる縁者もなかったが、隆運の力によって帝は大位に即くことができた。帝はその功を思い父のごとく事え、隆運の死には帝自ら喪に服した。帝は聡明で謀略に富み神武に優れ、狩猟で二頭の虎を一度に射殺し、また一矢で三頭の鹿を貫いたこともあった。仏教・道教の両教にも通じ、律呂・音楽にも精通していた。太平の世が長く続くと酒宴を好み、番漢の臣下と昼夜を分かたず飲み交わし、時に自ら歌舞し、后妃に琵琶を弾かせて酒を勧めた。詩作も好み、群臣に題を与えて詩を作らせ自ら閲読し、優れた者には金帯を賜った。自ら曲を百余首制作したという。臣下の邸宅を訪れることを「迎駕」と呼び、盛んに催された。刑罰・恩賞は信賞必罰で、諸番を懐柔することに恩信があった。宋との交誼を大切にし、使者の贈答も自ら検分した。黄河の氾濫で会同駅が水没した際には自ら適地を選んで新たに駅を建てた。毎年宋からの使者が来ると、宋の科挙合格者名簿を取り寄せて等級・及第年月を確認し、贈物についても密かに調べさせた。
  • 宋の真宗が崩じ薛貽廓が訃報をもたらす前に幽州から急報が入ると、帝は貽廓の到着を待たず番漢の大臣を集め哀悼の意を表し、后妃以下も涙した。帝は宰臣呂徳懋に「私と兄皇(真宗)は和議を結ぶ前は互いに勝敗を重ねたが、兄弟の約を結んで二十余年、兄皇が崩じられ、しかも同月生まれで二歳年上であった、私もあとどれほど生きられようか」と涙した。さらに「甥の帝(仁宗)はまだ幼く、兄皇との義理をご存じないだろう、臣下に離間されて誓約に背かれるのではないか」と述べた。貽廓の来訪で宋帝の誠意を知ると喜び、后に「甥の帝の来意を見るに兄皇の誓いに背くことはあるまい」と述べ、呂徳懋には「晋の高祖(石敬瑭)は嗣聖爺爺(太宗)の恩により立ったのに、幼主が即位するとすぐ盟約に背いた、皆臣下が惑わせたのだ。甥の帝はきっと篤実に長く続けよう」と語った。后には「まず南朝の太后に手紙を送り、妯娌(姑嫂)の誼を述べ使者の往来を通じて南朝に伝えるように」と命じた。
  • 燕京の憫忠寺に真宗の御霊を特別に安置させ資福道場を建て、百日で終えた。沿辺の州軍に音楽演奏を禁じさせた。教坊の役人の名が偶然真宗の諱に触れると帝は「教坊の首領たる者が兄皇の御諱を知らぬのか」と怒り筆でその文書を抹消させた。燕京の僧録も真宗の諱に触れ「円融」と改名させられた。ほどなく国中の文武百官・僧道・軍人・百姓に至るまで真宗の諱に触れる者は改名するよう命じた。
  • 漢人の政務は南朝(宋)の法度に照らして行うよう詔し、宋の百余の制度を尊重するなどこの類が多かった。晩年、消渇病(糖尿病)を患い、死亡に関する言葉を忌み、自らの父母の尊号すら口にすることを避けた。病が篤くなると東平王蕭孝穆・上京留守蕭孝先を駅伝で呼び寄せ、まず輔立の事を委ね、次いで宋との誓約を失わぬよう託した。さらに子の宗真に「皇后は我に四十年仕えたが子がないため汝を嗣とした。我が死後、汝の実母を決して殺してはならない」と言い含めた。
  • 六月三日、上京の東北三百里、大斧河の行帳で崩じた。享年六十一、太后の臨朝を含め在位は通算四十九年であった。上京の西北二百里、赤山に葬られた。諡は天輔皇帝、廟号は聖宗。

史論

  • 聖宗は寛仁の資質を備え早くから聡明であった。幼くして母后が政を握ったが、後には元輔(耶律隆運)が功を専らにした。澶淵の役の深い侵入は母后と権臣の謀であり聖宗本来の意ではない。功臣を厚遇し始終変わらぬ態度、慈孝の性は天性に発するもので、まさに守成の令主というべきである。