契丹國志卷三 帝紀(會同九年以降)
太宗(耶律徳光)の治世末、會同九年から十一年にかけての記事。晋を滅ぼして大梁に入り皇帝を称するが晋の民心を得られず撤退し、その途上の欒城で病没した経緯を収める。廟号太宗、諡嗣聖皇帝。この巻末で永康王兀欲(世宗)が即位した。
會同九年(946年)
- 春正月、遼の軍勢は邢州・洺州・磁州の三州から安陽河にまで至り、千里の間を焼き払い尽くした。遼主は大きな桑の木を見て「お前の身から紫の襖(紫披襖=晋の禍の象徴)が出たのだろう」と罵り、薪を束ねて焼いた。
- 晋の出帝は病で親征できず、張従恩・馬全節・安審琦・皇甫遇に命じて相州の安陽水の南に布陣させた。皇甫遇と濮州刺史慕容彦超は数千騎で先行偵察に赴き鄴都付近で遼の数万の軍に遭遇、榆林店まで戦いながら退き、正午から未の刻まで百余合を戦い多くの死傷を出した。日暮れに安審琦が斥候の帰還がないことを怪しみ騎兵を出すと、遼軍は「晋軍が全て来た」と自ら驚き退いた。遼帝は邯鄲にいたがこれを聞いてすぐ北へ帰った。
- 二月、遼は疲弊兵に牛羊を追わせて祁州城下を通過させ、晋の刺史沈斌が出撃するとその隙に遼の精兵が城門を奪い、州の兵は城に戻れなくなった。趙延寿が急ぎ攻めると、城上の沈斌に降伏を勧めたが、斌は「侍中父子は判断を誤り虜廷に身を落としながら恥じず驕っている。私は弓折れ矢尽きても国のために死ぬ、あなたのようにはしない」と拒んだ。翌日城は陥落し斌は自害した。
- 三月、遼軍は帰陣し南下して晋の都を衝いたが、排陣使符彦卿らの反撃で敗走した。
- 夏四月、晋の杜威らの諸軍が定州に集結し、遼の泰州を攻めて降し、満城を取って遼兵二千を得、遂城も取った。趙延寿の部下からの降者が「遼帝は虎北口に戻ったが晋が泰州を取ったと聞き再び八万余騎で南下する、明夕には到着する」と告げると、杜威らは恐れて陽城に退いた。遼の大軍が至り晋軍と交戦、十余里追撃したが遼は白溝を越えて去った。晋軍は陣を組んで南下したが胡騎に四方を囲まれ、人馬とも飢渇に苦しんだ。白団村で鹿角を埋めて陣を築いたが遼軍に幾重にも囲まれ、奇兵に糧道を断たれた。夜、東北風が強く吹き営中の井戸も掘れば崩れるほど水がなかった。夜明けに風がますます強まると、遼帝は奚車の中から鉄鷂(重装騎兵)を四方から下馬させ鹿角を抜いて突入させ、風に乗じて火と塵を放って攻めた。晋の諸将は憤り、符彦卿らが精兵で西門から出撃、遼軍は数百歩退いたが風勢はさらに強まり昼も暗くなるほどであった。彦卿らが万余騎で遼軍を横撃すると喊声は天地を揺るがし、遼軍は山が崩れるように大敗して逃げた。晋軍は幽州まで進んだところで散兵を集め直したが、遼帝は敗戦の責任として酋長たちを数百回杖打ちさせ、諸軍を引き上げさせた。晋の出帝も大梁に帰った。
- 六月、晋は遼に使者を遣わした。
- (付記)遼が連年侵入し中国が疲弊し辺民が塗炭の苦しみを味わうなか、述律太后は帝に「漢人を胡主とすることができるか」と問い、帝が「できない」と答えると「ならばなぜお前は漢の帝になりたいのか」と問うた。帝は「石氏(晋)は恩を裏切った、許せない」と答えた。太后は「今漢地を得てもそこに住むことはできまい、万一つまずけば後悔しても及ばぬ」と諭し、また群臣に「漢人はなぜ一時も安眠できないのか。昔から漢が胡に和を求めた例はあっても、胡が漢に和を求めた例はない。漢人が本当に改心するなら、和議も惜しまない」と語った。晋の桑維翰は出帝に和議の再開を勧め、供奉官張暉に上表させ臣を称し謝罪させたが、遼帝が「景延広・桑維翰が自ら来て、さらに鎮州・定州を割譲するなら和を許す」と条件をつけると、出帝はこの言い方に激怒し和議の意志なしとみて中止した。のち出帝は大梁に入ってから李崧らに「もしあのとき晋の使者が再び来ていれば、南北は戦わずに済んだものを」と悔いた。
- 八月朔、日食があった。
會同十年(947年)
- 春二月朔、日食があった。
- 夏四月、晋の定州指揮使孫方簡が叛いて遼に降った。
- 六月、遼が定州を攻め、晋は李守貞を都部署として防がせた。
- 八月、晋の張彦沢が定州の北で遼軍を破った。
- 冬十月、晋は杜威・李守貞に遼を攻めさせた。
- 十一月、晋の杜威・李守貞は瀛州に至ったが城門が開いたまま人影もなく、威らは進めなかった。遼将高謨翰がすでに密かに退いたと聞き、威は梁漢璋に二千騎で追わせたが漢璋は敗死し、威らは南へ引き上げた。
- 十二月、遼の大軍が入攻し恒州へ向かった。杜威らはこれを聞き冀州・貝州から南下しようとしたが、恒州にいた張彦沢が合流し遼軍を破れると進言、威らは再び恒州へ向かい彦沢を先鋒として滹沱河を挟んで遼軍と対陣した。遼軍は晋軍が河を渡って恒州軍と合流することを恐れ撤退を議したが、晋軍が塁を築いて持久策に出たと知り留まった。
- 磁州刺史李穀が杜威・李守貞に浮橋を架け城中と呼応して夜襲する策を進言し諸将も賛同したが、杜威一人が反対し李穀を懐州・孟州の軍糧督促に出した。遼は大兵を晋軍の前に配しつつ蕭翰に百騎で晋軍の背後を突かせ糧道と帰路を断った。晋の樵採者は捕らえられ、逃れた者は遼の軍勢の盛んなことを語り、黥面の晋民を放って「勅により殺さず」と言わせたため運送兵は皆恐れて逃げ散った。
- 李穀は出帝に危急を密奏し滑州への行幸や澶州・河陽の守備強化を求め、杜威も増兵を求めたため晋は宮禁の守備兵まで動員したが、杜威の使者は遼軍に捕らえられ以後出帝と軍前の連絡が絶えた。開封府尹桑維翰は国家存亡の危機を訴えようとしたが、出帝は苑で鷹を調教中で会わず、執政に訴えても取り合われず「晋はもう長くない」と嘆いた。
- 胡文定公は、桑維翰が何を言おうとしたか史書に記されず遺憾だが、おそらく出帝に臣を称して謝罪し関南の地を割いて賂を増すよう勧めるつもりだったのだろう、それは目前の危機を救えても後日の禍根を断つには足りなかったと論じている。夷狄と対等に事を構える危うさを説く。
- 晋の出帝は自ら親征しようとしたが李彦韜の諫めで止めた。晋の奉国都指揮使王清は戦死した。
- 杜威は李守貞・宋彦筠らと降伏を謀り、遼帝に重賞を求める使者を送った。遼帝は「中国の地を与えて帝とする」と偽って約したため威は喜び降伏を決めた。諸将を集め降表に署名させると、兵士は当初決戦の意気に燃えていたが降伏と知らされ甲を脱ぐよう命じられると大いに哭き、その声は原野に響いた。
- 遼帝は趙延寿に赭袍を着せて晋営に赴かせ士卒を慰撫させ、杜威にも赭袍を着せたが、実際にはこれを戯弄したに過ぎなかった。
- 威は遼帝を恒州城下に導き、順国節度使王周が降った。
- 遼帝は易州・定州から恒州へ向かい、威は降兵を率いて従った。張彦沢に二千騎で先に大梁を取らせ、通事の傅住児を都監とした。杜威の降伏に加わらなかった皇甫遇は先に大梁入りするよう求められたがこれを拒み「私は将相の位にありながら敗れても死ねなかった、どの面下げて南行できようか」と語り、平棘に至って自ら喉を突いて死んだ。
- 胡文定公は五代史・通鑑の記述の違いに触れ、皇甫遇が杜威を斬らず黙って命に従ったことを歐陽脩は批判したが、通鑑では節士として扱われる差を論じ、人物評価の難しさを説いている。
- この月、張彦沢は昼夜兼行で白馬津を渡った。晋の出帝は李崧・馮玉・李彦韜を召し劉知遠への援軍要請を諮ったが、翌日彦沢が封丘門を破って城内に乱入し大混乱となった。出帝は宮中に火を放ち後宮の女性十余人を連れて自ら剣を持ち焼身しようとしたが嬖臣の薛超に止められた。まもなく彦沢が遼帝・太后の慰撫の書を伝えると出帝は火を消させ后妃と泣き、范質に降表を書かせ「孫男臣重貴、禍至り神惑い、運尽き天亡ぶ。太后と妻馮氏とともに一族面縛して罪を待つ。男の延煦・延宝に国璽を持たせ出迎えさせる」と称した。太后も「晋室皇太后李氏妾」と称する上表をした。傅住児が遼帝の命を伝えると出帝は黄袍を脱ぎ素袍を着て拝礼し、遼帝は「孫よ心配するな、飯くらいは食わせてやる」と伝えた一方、献上した伝国宝が偽物だと詰問した。出帝は「先の唐の潞王従珂が自焚した際に旧伝国宝の行方は分からなくなった、これは先帝の作らせた物である」と釈明しこれ以上追及されなかった。璧を銜え羊を牽き大臣が輿櫬を担いで郊外で迎える儀を有司は求めたが、遼帝は「私は奇兵で大梁を取ったのであり降伏を受けるのではない」と許さなかった。晋の文武百官はそのままとし、朝廷の制度は漢の礼をそのまま用いるよう詔した。出帝が張彦沢を呼んでも笑うだけで応じず、桑維翰・景延広も召された。維翰は逃げるよう勧められたが「私は大臣、どこへ逃げよう」と留まった。彦沢が出帝の命と称して呼び出し、維翰は途中で李崧と話している最中に軍吏に侍衛司へ連行された。維翰は免れぬと悟り李崧に「侍中が国政を執っていながら国が滅び、私が代わりに死ぬのはどういうことか」と言うと崧は恥じた様子だった。彦沢は座ったまま維翰を迎え、維翰は「昨年罪人の身から取り立て大鎮を任せ兵権まで授けたのに、なぜこれほどの恩を裏切るのか」と厳しく責めたが彦沢は答えられず兵に監視させた。
- 彦沢は二日にわたり大掠奪を行い都城は空になった。彦沢は遼への功を誇り旗に「赤心為主」と記したが見る者は皆嗤った。彦沢は出帝を開封府へ急ぎ移させ見る者は涙した。帝と太后・皇后は輿に乗り宮嬪・宦者十余人が徒歩で従い内庫の金珠を持参したが、彦沢は「これは隠せぬ物だ」と全て奪って私邸に運んだ。彦沢は控鶴指揮使李筠に出帝を監視させ内外の連絡を絶ち、遼への上表もまず彦沢の検閲を経てから提出させた。内庫の帛を求めても主者は「陛下の物ではない」と拒み、李崧に酒を求めても「陛下が憂躁のあまり不測の事があってはと案じ差し上げられない」と断られ、李彦韜にも会ってもらえなかった。出帝の姑・烏氏公主は門番に賄賂を渡し帝と最後の別れをして帰宅後に自ら首を吊って死んだ。
- 遼帝が渡河した際、出帝は郊迎しようとしたが彦沢が許さず、遼帝は「天に二つの日はない、天子同士が道で会うことなどあろうか」と拒んだ。
- 晋の皇子延煦の母、楚国夫人丁氏は美貌の持ち主であったため彦沢の手の者に奪われた。
- 彦沢は桑維翰を殺し、帯を首に巻いて自経したと帝に偽って報告した。帝はその家族を厚く撫恤するよう命じた。
- 高行周・符彦卿は降伏し、帝は陽城の敗戦を責めた。彦卿は「私はただ晋主のため力を尽くしただけ、今は死生とも命に従う」と答え、帝は笑って許した。
- 帝はさらに兵を河陽に遣わし景延広を捕らえさせた。延広は封丘で帝に会い、帝は「両主が不和になったのはお前のせいだ、十万の横磨剣はどこにあるのか」と責めた。喬栄を召して対質させると栄は懐に隠した書を取り出し十の事柄で延広を問い詰め、延広はその都度牙籌を渡され八籌に至ると帝は激怒し縛らせた。のち本国送還の途上、陳橋に泊まった夜、延広は自ら喉を突いて死んだ。
會同十一年(948年)
- 春正月朔、晋の文武百官は都城の北で出帝に別れを告げ、白装束で降伏を迎え路傍にひれ伏して罪を請うた。帝は起立を命じ服を改めさせ慰撫した。出帝・太后は封丘門外で迎えたが帝は会わず、封禅寺に館させ将の崔廷勲に守らせた。折しも雨雪が続き外からの補給もなく上下ともに凍餓に苦しみ、太后は寺僧に「私はかつてここで数万の僧を供養した、今日それを憐れんでくれぬのか」と訴えたが僧は遼帝の意図が分からず食を献じることを拒み、出帝が密かに守衛に頼んでようやく食を得た。
- 帝が城門に入った際、民は皆驚き逃げ惑ったので通事に「我も人である、恐れるな、いずれ息をつかせてやる。私は好んで南下したのではない、漢兵が私をここまで導いたのだ」と諭させた。明徳門に至ると馬を下り拝礼して晋の宮中に入り、嬪妃が出迎えたが顧みなかった。日暮れに再び出て赤崗に駐屯した。楊承勲を捕らえ、父の楊光遠を脅して叛かせた罪を責め、肉を刻んで食わせた(酷刑)。
- 先に張彦沢は閣門使高勲と仲違いし、酔って高勲の家に押し入り叔父と弟を殺していた。帝は京師に至り彦沢の掠奪を聞き怒って捕らえ、高勲や百姓もその悪事を訴えたため高勲に監刑を命じた。彦沢がかつて殺した士大夫の子孫は喪服姿で罵り杖で打ち、彦沢は俯いて一言もなかった。北市に至り腕の鎖を断ってから刑を執行、高勲はその心臓を抉らせ死者を祭り、市人は先を争って脳を割り髄を取り肉を食らったという。
- 胡文定公は、晋を興したのは桑維翰、晋を滅ぼしたのは景延広だが用心の違いこそあれ二人とも禍を招いたことを問い、歐陽脩の「本末順わずして夷狄と事を共にする者は禍を見て福を見ず」の言を引いて論じている。
- 帝が宮に入った際、諸門に兵を配し犬を磔にし庭に羊皮を竿に懸けるなど厭勝の法(邪気払い)を行った。晋の群臣に「今後兵備を修めず戦馬も市せず、賦役を軽くすれば天下太平になろう」と述べ、中国風の服装に改め百官の制度も旧に従わせた。李崧を太子太師・枢密使とし、馮道は太傅として枢密院に伺候させた。使者を分遣して晋の藩鎮に詔を賜うと大臣たちは争って上表し臣を称したが、彰義節度使史匡威だけは涇州で抵抗し、雄武節度使何重建は秦・階・成の三州を蜀に降した。
- 帝は晋の降卒の武具を恒州に集め馬を北へ送り、胡騎で降卒を河に沈めようとしたが趙延寿が辺境守備への配置転換を勧め助命され、各営へ散遣された。
- 遼は出帝を光禄大夫・検校太尉、負義侯に落として黄龍府へ遷した。帝は太后に「重貴(出帝)が母の教えに従わずこうなったと聞く、望むなら自由にしてよい、無理に同行せずともよい」と伝えたが、太后は「重貴は私によく仕えた。誤りは先君の志に背き両国の和を断ったことだが、大恵を蒙り生き延び家を保てるならば、母として子に従わぬわけにいかない」と答え、太后・馮后・皇弟重睿・子延煦・延宝を挙げて北へ従わせた。宮女五十人、宦者三十人、東西班五十人、医官一人、控鶴官四人、御厨七人、茶酒司三人、儀鸞司三人、六軍士二十人が随行し、騎兵三百が護衛した。趙瑩・馮玉・李彦韜も同行させられた。通過する州県は皆かつての晋の将吏で供応もできず、路傍の父老が羊酒を献じようとしても護衛兵に阻まれ皆涙して去った。かつての臣下で謁見に訪れる者もいなかったが磁州刺史李穀だけは道に迎え財を尽くして献じた。晋侯は中度橋で杜威の陣営を見て「天よ、我が家は何を負ったのかこの賊に破られるとは」と慟哭した。
- 帝は四方からの貢献を広く受け大いに酒宴を楽しんだ。趙延寿が上国の兵の食糧支給を求めると、帝は「我が国にそのような法はない」と答え、胡騎を四方に放って掠奪させこれを「打草穀」と呼んだ。壮丁は刃に斃れ老弱は溝壑に棄てられ、東西両畿から鄭州・滑州・曹州・濮州の数百里にわたり財畜が尽きた。
- 晋の北面行営都統劉知遠は客将王峻に上表させ臣を称した。帝は詔を賜い褒め、知遠の姓名の上に自ら「児」の字を加え木拐(杖)を賜った。胡の慣わしでは大臣を優遇する際、漢の几杖の賜与に相当するものであった。
- 荊南節度使高従誨が使者を遣わし入貢した。
- 唐主(南唐)は使者を遣わし晋を滅ぼしたことを賀し、長安の諸陵の修復を願い出たが帝は許さなかった。
- 二月朔、帝は通天冠・絳紗袍を身に着け大圭を執って視朝した。中国風の者は法服を、北人はなお胡服のまま文武の班に立ち、百官が朝賀した。帝が百官に「中国の風俗は我が国と異なる、私は一人を選んでこれを治めさせたいがどうか」と問うと、皆「夷夏の心は皆陛下を推戴したい」と答え、晋国を大遼と称する詔を出し天下に大赦した。
- 燕王趙延寿は遼帝が約束を違えたことを怏々として恨み、皇太子になることを願い出た。帝は「私は燕王のためなら我が皮肉すら惜しまない、だが皇太子は天子の子がなるものだ、燕王がなれるものではない」と述べ、代わりに官を上げるよう命じた。張礪は中京留守・大丞相・録尚書事・都督中外諸軍事に擬したが、帝は「録尚書事都督中外諸軍事」を削って行わせた。
- 晋の劉知遠は晋陽で皇帝を称し、晋国の改称を憚りつつ開運の名も嫌って天福十二年と称した。遼国のため括率されていた銭帛の徴収を諸道で停止させた。
- 劉知遠は自ら東へ晋侯を迎えに向かったが壽陽で数日遅れたことを知り承天軍の守備兵を残して引き返した。
- 晋侯は幽州から十余里、平州を過ぎ、道中は補給もなく飢えて宮女・従官が木の実や野草を採って食べるほどであった。さらに七、八日進み錦州に至ると、護衛兵が太祖の画像を拝むよう強い屈辱を強いたため晋侯は「薛超が私を誤らせ死なせてくれなかった」と嘆いた。馮后は毒薬を求め晋侯と共に死のうとしたが果たせなかった。さらに五、六日進み海北州を過ぎ東丹王の墓に至ると延煦に拝ませ、さらに十余日進んで遼水を渡り渤海国鉄州に至り、七、八日進んで南海府を過ぎ、ついに黄龍府に至った。
- 帝は劉知遠の即位を聞き耿崇美に沢州・潞州、高唐英に相州、崔廷勲に河陽を守らせ要害を固めさせた。滏陽の賊帥梁暉は夜、壮士を相州城に忍び込ませ内側から関を開かせて遼兵数百を殺し、州を占拠し自ら留後を称した。
- 鎮寧節度使耶律郎五は残虐であったため澶州の民が苦しみ、賊帥王瓊が徒党千余人を率いて郎五を牙城に包囲した。帝はこれを恐れ兵を遣わし救ったが瓊は敗死した。帝はこれ以来河南に長く留まる意志を失った。
- 述律太后は使者を遣わし国中の酒饌・脯菓を帝に贈り晋平定を賀した。帝は群臣と永福殿で宴し、酒を挙げるたび立って飲み「太后の賜り物、座して飲むことはできない」と述べた。
- 三月朔、帝は赭袍を着て崇元殿に座し、百官が入閤の礼を行った。
- 胡文定公は、衞の宣公の淫乱が狄の滅亡を招いたこと、晋室の三綱断絶が五胡の乱を招いたこと、唐の家法の乱れと戎狄との結託が五代を通じて禍根を残したことを論じ、堯舜・三王が華夷の別を厳しくして人倫を守った意義を説き、末流のこの惨状に至ったことを嘆いている。
- 帝は晋の百官に「暑さが近づき私は長く留まれない、しばらく上国に戻って太后にご挨拶したい」と述べ、汴州を宣武軍とし蕭翰を節度使とした。翰は述律太后の兄の子で、その妹はまた帝の后であった。これより蕭を姓とし、以後遼の后族は皆蕭氏を称するようになった。
- 帝は大梁を発ち、晋の文武諸司・諸軍の吏卒数千人、宮女・宦官数百人が従い、府庫の財を尽くして持ち去った。宣徽使高勲に「私は上国で狩猟を楽しみとする、ここにいると気が滅入る、帰れるなら死んでも悔いはない」と語った。
- 夏四月、遼帝は相州を攻めて陥し、城中の男子を皆殺し婦人を連れて北へ引き上げ、高唐英に守らせたが、生き残った民はわずか七百人、髑髏は十余万に及んだ。
- 帝は大梁から北帰する途中、欒城に至って病を得て殺狐林で崩じた。国人は遺体の腹を割いて塩数斗を詰め北へ運んだため、晋人はこれを「帝羓」(塩漬けの帝)と呼んだ。喪車が国に着いても述律太后は哭かず「諸部が旧のように安定してから汝を葬ろう」と述べた。翌年八月、木葉山に葬られた。
- 遼帝は在位二十余年、諡は嗣聖皇帝、廟号は太宗。
- 『紀異録』は、太宗が欒城で病んでいたころ、上京西八十里の山中で猟師が太宗そのままの容貌の人物が白馬で白狐を追い射殺すのを見たが、程なく国主南征未帰と聞いて怪しみ、その死んだ狐と矢を得たものの人物の行方は分からなかったという逸話を伝える。旬日を経ずして訃報が届き、日付を検めると発病の日と一致し、矢を検めると南征に帯びていた矢の一本が欠けていたという。国人はその地に堂を建て白狐の像と矢を安置し「白狐堂」と名づけた。今の陵の傍らにある懐州がそれである。中原が戦乱に沈むなか、殺狐の兆と符合する話として伝えられている。
史論
- 太祖の興隆は灰から燃え広がる炎のようであった。太宗はこれを継ぎ、祖父の遺業を承けて辺境の英気を発揮し大位に登り大名を受けた。しかし石敬瑭(石郎)の一件は中原にとって大禍となった。幽州・燕州の諸州は天が番・漢の境を分かつために設けた要害であり、一夫が関を守れば万夫も進めぬ地であった。それを石晋が軽々しく与えたため、遼は中原の喉元を扼することとなり、虎狼を飽かせながらそれが噛みつかぬことを願うに等しく難しかった。ついに弓弦を鳴らし中原に攻め入り華人を殺戮し、京洛を席巻して天下に敵無く、四海を荒れ地とした。謀臣・猛将も遂に手をこまねき、神州は分裂し諸侯が競って帝を称する事態となったが、それもまた誰の責めとも定めがたい。
皇位継承
- 五月、永康王兀欲(世宗)が即位した。