契丹國志卷一 帝紀 太祖皇帝
太祖(耶律阿保機、諱億、?–927年)。契丹八部の交代首長制を破って自立し、周辺諸族を服属させた末に自ら皇帝を称し、国号を契丹、年号を神冊と定めた建国者。渤海を滅ぼして東丹国を建てるなど東北一帯を平定し、晩年は南征の途上、渤海平定後に夫餘城で没した。廟号太祖。
出自と生い立ち
- 太祖の諱は億(阿保機はその契丹名)。斡里(夷離巾、中国でいう刺史にあたる官)の末子として生まれた。
- 生まれつき度量が広く知略に富み、常人と異なるところがあった。壮年に及ぶと勇武で胆略があり、騎射を好み、厚さ一寸の鉄板を射抜くほどであった。寝所には夜ごと光が現れ、周囲の者が驚き怪しんだという。
- 部族はその雄勇を恐れ、皆畏れ服した。
- もとは契丹八部に分かれ交代で首長を出す制であった。唐の咸通末に習爾が王となって以降勢力が拡大し、欽德の代には中原の混乱に乗じて度々辺境に侵入した。阿保機が王となるとますます勇猛で、五姓奚・七姓室韋がこれに服属した。
- 太祖が黄頭室韋を討って帰る途中、七部が境上に集まり交代の約束の履行を求めた。太祖はやむなく旗鼓を譲ったが、「私は九年間王であった間に漢人を多く得た。願わくば漢人の集落を率いて古い漢城に居り、漢人とともに守らせてほしい。自らは一部として独立する」と述べ、七部はこれを許した。
- その後太祖は七部を撃滅して再統一し、さらに北は室韋・女真を伐ち、西は突厥の故地を取った。奚を撃って滅ぼし、改めて奚王を立てて契丹にその兵を監督させた。東北の諸夷は皆畏服した。
- 梁の太祖開平元年、契丹は臣・袍笏梅老を梁に遣わして通好し、梁も高頎・郎公遠を答礼に遣わした。太祖はかつて三十万を率いて雲州を攻めたことがあり、晋王李存勗と和を結んで東城で会見、義兄弟の約を交わし、その年冬に共に梁を撃つことを約した。晋王は金繒数万を贈り、太祖は馬三千匹・雑畜多数を返礼とした。太祖は帰国後、梁とも通好を続けた。
神冊元年(916年)
- 阿保機は自ら皇帝を称し、国人はこれを「天皇王」と呼んだ。妻の述律氏を皇后とし、百官を置き、年号を神冊、国号を契丹と定めた。
- 唐末の藩鎮の抗争のなかで燕人の兵士が多く契丹に亡命し、契丹は日に日に強大化した。燕人の韓延徽は智略に優れ文才もあり、太祖に重用されて謀主となった。延徽は契丹に牙帳・開府の制、城郭の築造、市里を設けて漢人を住まわせる政策を教え、漢人がそれぞれ生業を営めるようにしたことで亡命者が減った。
- 延徽は一時晋に出奔したが、晋の書記王緘に疎まれて自らの立場に不安を覚え、母を見舞う名目で契丹に戻った。太祖はさらに厚遇し、宰相に任じ、のち中書令・平章事にまで昇らせた。
神冊二年(917年)
- 春二月、晋王の弟で威塞軍節度使の李存矩が新州で驕慢・不行き届きの政をなし辺民の恨みを買い、部下の宮彦璋に謀殺された。その配下の盧文進は部衆を率いて契丹に投じた。
- 三月、盧文進は契丹兵を率いて晋の新州を攻め、刺史安金全は城を捨てて逃げた。文進は部将劉殷を刺史として守らせた。晋王は周徳威に河東・鎮・定の兵を合わせて攻めさせたが十日を経ても落とせず、太祖が三十万を率いて救援に赴くと徳威は大敗して逃げ帰った。太祖は勢いに乗じて幽州を包囲し、百万と号して威勢を誇示した。盧文進の指図で地道を掘り昼夜四方から攻めたが、城中は地に穴を掘り膏を燃やしてこれを迎え撃ち、土山を築いて城を見下ろせば城中は鎔けた鉄汁を注いで応戦、日々千を数える死者を出しながらも攻城は止まなかった。周徳威は晋王に急を告げた。
- 四月、晋王は李嗣源・李存審・閻寶を援軍として遣わした。契丹の幽州包囲はほぼ二百日に及び、城中は困窮した。李嗣源ら歩騎七万は易州で合流し北上、大房嶺を越えて谷を伝い東進、幽州まで六十里の地点で太祖軍と遭遇した。太祖は山上を行き晋軍は谷底を行く隘路で幾度も晋軍を阻んだが、李嗣源は自ら百余騎で先駆けし胡語で「汝の国は理由なく我が境を犯した。晋王は我に百万の兵を授け汝の一族を滅ぼせと命じた」と呼びかけて奮戦、酋長一人を斬るなどして後続部隊を進ませ、晋軍はようやく脱出した。李存審は歩兵に鹿角(防柵)を作らせて陣を固め、太祖の騎兵が包囲すると弩を一斉に放って多くの死傷を与えた。幽州近くでは煙塵を利用した奇策で太祖軍を大敗させ、太祖は北山経由で敗走、車帳・鎧仗・羊馬を野に棄てた。晋軍は幽州に入った。太祖は盧文進を盧龍節度使として平州に置き、以後毎年北辺に侵入して官吏・民を殺掠し、盧龍一帯を疲弊させた。
- (付記)幽州の北七百里に渝関があり、下に渝水が海に通じている。関の東北は海沿いに道が続くが狭く険しい難所で、進牛口まで中国はかつて八つの防禦軍を置き土着の兵で守らせ、屯田で軍糧をまかない毎年布帛を供していた。毎年の収穫期には野を清めて待ち、契丹が来れば城を固めて戦わず、去れば精鋭を選んで隘路で迎え撃ち、契丹はしばしば不利を被って軽々には侵入できなかった。しかし周徳威が盧龍を鎮めるに及び、勇に恃んで辺備を怠ったため渝関の険を失い、契丹は営州・平州の間で牧畜を行うようになった。盧文進が帰属してからは平州に居り、奚の騎兵を率いて毎年北辺に侵入し官吏・民を殺掠したため、盧龍一帯はますます疲弊した。
神冊三年(918年)
- 太祖の弟撒剌阿潑は北大王と号し謀反を企てたが発覚した。太祖は「お前は私の手足であるのに、なぜこのような心を起こしたのか。もし私がお前を殺せば、お前と何が違おうか」と責め、これを幽閉したが一年後に赦した。撒剌阿潑は部衆を率いて晋に出奔し、晋王は厚遇して養子とし刺史に任じた。
神冊四年(919年)
- 特記事項なし。
神冊五年(920年)
- 特記事項なし。
天贊元年(922年)
- 夏六月朔、日食があった。
- 十二月、晋王が鎮州を包囲して張文礼を討った。義武節度使王処直は鎮・定を唇歯の関係とみて鎮の滅亡が定の孤立を招くことを恐れ、子の王郁を通じて契丹に賄賂を送り、鎮州包囲を解かせるべく契丹に侵入を促した。王郁は太祖に「鎮州は美女・金帛に富み、天皇王が急ぎ赴けば皆己の物となる。さもなくば晋王のものになる」と説き、太祖はこれに従い全軍で南下した。述律后は「我が西楼には羊馬の富があり楽しみは尽きない。何を苦しんで遠く出兵し危険を冒して利を求める必要があろうか。晋王の用兵は天下無敵と聞く、万一敗れれば後悔しても遅い」と諫めたが太祖は聞かず、南進して涿州を包囲、十日で陥落させ刺史李嗣弼を捕らえ、さらに定州に迫った。王処直の子王都は晋王に急を告げた。
天贊二年(923年)
- 春正月、晋王は自ら鉄騎五千を率いて来攻、新城の北で太祖軍と遭遇し太祖はやや退いた。晋王軍は太祖の子を捕らえた。契丹兵は退いて望都を守った。晋王が定州に至ると王都は馬前に出迎え、娘を晋王の子継岌に嫁がせることを願い出た。晋王が望都に向かう途中、奚の酋長禿餒の五千騎に苦戦したが李嗣昭が三百騎で横撃してこれを退け、晋王は脱出できた。晋軍は勢いに乗じて太祖軍を大敗させ、太祖は北の易州まで敗走した。折しも大雪が十日余り続き平地に数尺積もり、人馬の死者が相次いだ末に太祖は帰還した。晋王は追撃しつつ太祖軍の宿営跡を見て、藁の敷き方が整然としていることに感嘆し「契丹の軍法は厳しい、中国も及ばない」と述べた。晋王が幽州に至り二百騎に契丹軍を追わせたが、契丹軍が国境を出たと見て勇んで追撃した晋の騎兵は逆に全員捕らえられた。太祖は謀を進言した王郁を責めて縛って連れ帰り、以後その献策を用いなくなった。
天贊三年(924年)
- 夏四月己巳、晋王李存勗は魏州の牙城の南で皇帝を称し、国号を大唐とした。魏州を興唐府とし東京を建て、太原府に西京を建て、鎮州を真定府として北都とした。この時唐の版図は十三節度・五十州であった。
- 冬十月朔、日食があった。彗星が輿鬼に現れ、長さ一丈余りであった。
- この月、梁の均王(末帝)が自殺した。
- 契丹は次第に強盛となり、盧文進を安住させるため唐に幽州を求める使者を送った。東北の諸夷は皆服属したが渤海のみ服さなかった。太祖は南征を計画するにあたり渤海に背後を襲われることを恐れ、まず渤海の遼東を攻めることとし、将の禿餒・盧文進を平州・営州等に置いて燕地を脅かした。渤海攻撃は功なく退いた。
天贊四年(925年)
- 春正月、契丹は幽州を攻めた。
- 十二月、蔚州を攻め、唐は李嗣源を遣わして防がせた。
天贊五年(926年)
- 夏四月朔、日食があった。
天贊六年(927年)
- 夏四月朔、唐の荘宗(李存勗)は汜水に赴こうとした矢先、従馬直指揮使郭従謙が謀反し興教門を攻めて城内に侵入、近臣・宿将は甲を脱いで逃げ去り、荘宗は流れ矢に当たって崩じた(享年四十三)。左右の者は散り散りとなり、善友という者だけが楽器を集めて遺骸を覆い焼いた。この月、李嗣源が罌子谷から洛陽に入り、灰燼の中から荘宗の遺骨を拾って河南新県に葬った。百官は嗣源に監国を勧め、やがて即位した。これが明宗である。
- 七月、唐は姚坤を契丹に遣わして荘宗の死を告げた。太祖はこれを聞いて慟哭し「我が朝定の子(義兄弟として遇した晋王)よ。渤海征討が終わらぬためすぐに救援できず、我が子をこうした事態に至らせた」と嘆いた。さらに「今の天子は洛陽の急変を聞いてなぜ救わなかったのか」と問うと、坤は「地が遠く及ばなかった」と答えた。太祖が「なぜ自ら立ったのか」と問うと坤は「新天子は二十年兵を率い、精兵三十万を擁する。天の時・人の事を違えられようか」と答えた。太祖の子突欲が「使者よ多言するな。田を踏んで牛を奪うような理不尽ではないか」と口を挟むと、坤は「天に応じ人に順うことは匹夫の事とは違う」と応じた。太祖は坤を慰め「その理はまさに正しい」と述べ、さらに「我が子(荘宗)は声色・遊猟を好み軍民を顧みなかったと聞く。それゆえこうなったのだろう。私はそれを聞いて以来一家で禁酒し、伶人を遣り鷹犬を放った。もし我が子と同じ振る舞いをすれば自ら滅びよう」と語った。さらに「今の天子に恨みはなく、和好を修めたい。もし黄河以北を我に与えるなら、二度と南侵しない」と述べたが、坤は「それは使臣の一存では決められない」と答えた。太祖は怒って坤を幽閉したが十日余りで呼び出し「河北は難しいだろうが、鎮・定・幽州だけでも得たい」と紙筆を与えて文書化を促した。坤が拒むと殺そうとしたが韓延徽の諫めにより再び幽閉するにとどめた。
- 太祖は渤海を攻め夫餘城を落として東丹国と改め、長子突欲を鎮めさせ人皇王と号した。次子德光には西楼を守らせ「元帥太子」と号した。
- (付記)渤海国王大諲譔はもと奚・契丹と唇歯の関係にあったが、太祖が八部を併呑しさらに奚国を併呑すると深く恐れ、密かに新羅など諸国と結んで援を求めた。太祖はこれを知り対応を協議していたが、狩猟中に自らの氈屋の上にいた黄龍を二矢で射殺す事があり、太祖は「渤海討伐の是非を衆議で決めかねていたところ龍が現れ、私がこれを射殺せたのは渤海を滅ぼす吉兆である」と述べ、ついに渤海国を平定し国王を捕らえた。
- 別の記録『紀異録』は、阿保機が西楼の氈帳で朝起きた際に十余丈の黒龍を見て射たところ空高く飛び去り、千五百里離れた黄龍府の西に落ちた際には長さ数尺に縮んでいた、後に女真が遼を滅ぼした際にその遺骸が内庫に保管されていたという異伝を伝える。正文は「黄龍を射た」とし、こちらは「黒龍を射た」とする違いがあるが、いずれも渤海平定の吉兆として語られている。
- 渤海平定後、契丹文字三千余言を制定した。居住地の大部落に天雄寺を建て、木葉山に南楼、大部落の東千里に東楼、大部落の北三百里に北楼(のち唐州となったが今は廃れて村となっている)、大部落内に西楼(現在の上京)を置いた。城と宮殿の正門はいずれも東に開き、四季ごとに四楼の間を遊猟して往来した。
- この月、太祖は夫餘城で崩じた。
- 述律后は諸酋長の妻を集め「私は今寡婦となった。お前たちも私に倣うべきだ」と述べ、さらに夫たちを集めて泣きながら「先帝を思うか」と問い、「先帝の恩を受けた身、思わぬはずがない」と答えた者を「本当に思うなら会いに行くがよい」と言って殺した。
- 八月朔、日食があった。
- 九月、太祖を木葉山に葬った。陵墓のかたわらに州を置き祖州と名づけた。今も廟があり、遺された靴は長さ四、五尺ほどという。諡は大聖皇帝、廟号は太祖。
- 述律后は左右の中で気骨ある者を選んでは「私に代わって先帝に言葉を伝えよ」と言って墓所で殺し、前後で殺された者は百人を数えた。最後に平州の趙思温が命じられた際、行くのを拒み「先帝に親しく近侍していたのは后が一番、后が行かれるなら私も従います」と答えた。后は「私も地下の先帝に従いたいが、嗣子がまだ幼く国に主がなく行けないのだ」と述べ、自らの片腕を断って墓中に納めさせ、思温は死を免れた。
- この月、述律后の中子德光が即位した(太宗)。
史論
- 契丹の興隆はもともと東胡に発する。人の姿をしながら内実は獣に近く、中原の隙をうかがっていたが、太祖ほどの盛んな存在はかつてなかった。唐末に諸藩が乱れ中原が荒廃するなかで、太祖は辺境から興り中華を馳駆し、幽・燕の地に勢威を及ぼし八部を併呑して名を高めた。天が乱を厭わなかったのか、あるいは僭称の名号がかえって人々を服させたのか。そうでなければこれほどの鋭さを持ちえただろうか。五胡の乱で聖鼎(王統)が移ったこと、拓跋氏が中原を席巻し南北が分裂したことも、人事のみならず運命の巡り合わせがあったのだろう。