金末最後の忠臣、汝水に殉ず
- 完顔仲徳、本名は呼沙呼、海蘭路の人。若くして穎悟で凡ならず、書を読み策論を習い文武の才があった。初め試補で親衛軍に入り、宿衛に充てられながらも学業を輟むことがなかった。泰和3年(1203年)進士に中り、州県で仕え、貞祐用兵に際し軍職に辟召された。かつて大元兵に俘われたが1年経たずしてその語をすべて解し、まもなく諸々の降人万余を率いて帰した。宣宗は召見してこれを竒とし邳州刺史兼従宜を授け城壁を増築し水を匯めてこれを環らし、州はこれによって守れるようになった。
- 哀宗即位に際し遥授同知帰徳府事同簽樞密院事とし院を徐州で行った。徐州城は東西北三面が皆黄河であり南のみ平陸であった。仲徳は石を疊んでその基とし城の半分を増し、なお隍(濠)を浚って水を引いて固にした。民はこれに頼って安んじた。正大5年(1228年)、詔で関陝以南の元帥府事を行わせ小関及び扇車回に備えさせた。この時、北兵が関を叩いた際、仲徳はちょうど前帥の鄂屯阿里布と酒を酌んで交代しようとしていたが、兵が猝に至り遂に東に駆られた。阿里布は素より守るべき策がなく、有司に劾されて罪は死に当たった。仲徳は上書して咎を引き受け「北兵が関を越えた際、符印はすでに交代していた、どうして罪を前帥に帰せられようか、臣が戮を受けたい」と述べた。上はこれを義とし、阿里布のみを杖してその死を貰した。6年(1229年)、鞏昌府知事に移り兼行総帥府事とした。
- 時に陝西の諸郡はすでに残破されていたが、仲徳は散亡を招集して軍数万を得、山に依って柵を為し屯田し穀を積むと、人は多く帰った。一方が独り小康を得たと号され、命令は明肅で路に落ちたものを拾わない有様であった。8年(1231年)4月、詔で仲徳に鞏昌行省及び虎符・銀印を授けた。天興元年(1232年)9月、工部尚書参知政事を拝命し尚書省を陝州で行った。時に烏登が新たに敗れ陝州は残破していたが、仲徳は再び山寨を立て軍民を安撫した。ちょうど上が蝋丸書(蝋で密封した書状)をもって諸道の兵に入援を徴した際、行省・院・帥府は往々にして観望して進まず、あるいは道中で兵に遭って潰えたが、ただ仲徳のみが孤軍千人を提げて秦・藍・商・鄧を経て果菜を摘んで食とし間闗百死(艱難万死)して汴に至った。至った日は、ちょうど上が東遷しており、妻子は京師にいること5年であったが、仲徳はその家に入らず趨って宋門で上に見え東幸の意を問い、北渡を欲していることを知ると力めて諫めて「北兵は河南にありながら上は遠く河北に徇(従う)のは、万一功なくして完全に帰れようか。国の存亡はこの一挙にあります、審察を加えることを願います。臣はかつてしばしば人を遣わして奏しました、秦・鞏の間は山巌が深固で糧餉が豊贍です、西に幸して険固に依って居るのに如くはなく、帥臣に道を分けて出戦させ然る後に興元を進取し巴蜀を経略するのがこの万全の策です」と述べたが、上はすでに博索と議して決めており従わなかった。
- しかし素より仲徳を重んじ、しかも赴難したことを嘉し、尚書省右丞兼樞密副使に進拝された。軍が黄陵に次った際、2年(1233年)正月、車駕が帰徳に至り、仲徳を尚書省を徐州で行わせた。既に至ると人を遣わして国用安と通問した。沛県の卓翼・孫璧冲なる者は初め用安に投じ、用安は翼を東平郡王・璧冲を博平公に封じ沛県を昇格させて源州とした。まもなく翼・璧冲は共に来帰し、仲徳は旧職を与え河北の諸砦を統べさせ源州帥府事を行わせた。用安はしばしば王徳全に入援を檄したが赴かず、仲徳が徐に至ると徳全は大いに恐れ帰徳に赴くことを求めたが、仲徳はこれを留め、人を遣わして奏帖を納めさせ「徐州は重地であり徳全は鎮を離れるべきでない」と述べた。仲徳は州廨を空にして居らず、また兵衛で自防することもなく日々書を読むことを事としていたが、徳全は自ら疑いをますます深めた。
- 2月、魚山総領の張瓛が乱を作し元帥の完顔呼図を殺し北に降った。仲徳はしばしば議してこれを討伐しようとしたが、徳全は従わず、すぐに麾下の10人ほどを領し親しく民兵を勧めて3百人を得て魚山に経往し、従宜の厳禄がすでに瓛を誅して反正した。仲徳は軍民を撫慰して還った。曹総領なる者があり御馬を盗んで東行し、制旨で行省に討伐を諭され、仲徳がすでに賊を殺すと徳全は功を自らに帰そうとし曹の党48人を殺した。3月、アルクチュルが蕭県を攻め游騎が徐に至り徳全の馬はすべてこれに邀われた。仲徳は時に宿州に往っていたため、徳全は馬を失ったことをもって初めて蕭県救援を議し、張元哥・苗秀昌を遣わして騎兵8百で往かせたが、まだ交戦しないうちに元哥は退走し北兵はこれに乗じて皆擒えられ殺された。蕭県は遂に破れた。4月、仲徳は表向き糧を邳州に取りに行くとし、州官が出迎えたのに乗じて捕らえ、徳全とその子を殺した。余党の外は一切問わなかった。合郡はこれを快とした。
- 当初、完顔呼図は遥授徐州節度使として厳禄軍を永州の北の保安鎮で帥っていた。時に禄は従宜として碭山にあり数年になり、また士心を得ていたが、呼図が軍に至ると軍士は悦ばなかった。2月辛卯の夜、遂に総領の張瓛・崔振に害された。吏部郎中の張敏修は呼図下の経歴官であったが軍変をもって厳禄を脅して北に降らせようとしたが、禄は佯(偽り)でこれに応じ、密かに永州守の陳立・副招撫の郭昇を召して諸義軍を会わせ保安鎮に赴き乱を作した者を誅させた。軍が夜に至ると、禄は敏修を遣わして瓛・振に事を計ることを招かせ、二人は疑わず甲冑をつけて至り、その党与とともに皆禄に殺された。徐州は保安を去ること百里、行省がこれを聞いて討伐しようとしたが、ちょうど禄がすでに反正していたため、便宜をもって禄に行元帥左都監を授け、そのまま呼図の虎符を佩わせた。朝廷は再び禄に遥領帰徳知府兼行帥府事を授けた。まもなく大元の将のアルクチュルが保安に至ると禄は夜に遁れた。後に禄は官努の変を聞き一軍を徐宿に頓すること幾ど1ヶ月、遂に漣水に投じた。敏脩は徐に入った。
- 5月、詔で仲徳を蔡に赴かせた。至った時にはすでに官努が変じており、官属はこれに欺かれることを懼れ行かないことを勧めたが、仲徳は「君父の命がどうして真偽を弁じられようか、死んでも当然行くべきだ」と述べた。まもなく使者が至り果たして官努の詐りであったと知られた。6月、官努が誅されると詔で仲徳に蔡への遷都を議させた。仲徳はもとより上を奉じて西幸させることを欲していたためこれを賛成し、蔡に至ると省院事を領し、大小に関わらず率いて親しくこれを行い、士を選び馬を括し甲兵を繕治し未だかつて一日も西の意を無くしたことがなかった。近侍・左右は久しく睢陽に困窮しようやく汝陽(蔡)の安に至って皆妻を娶り業を営みもはや遷徙を願わなくなっていたが、日夕、上に西行の不便を語り、まもなく大兵が路を梗ぎ結局西行は行われなかった。仲徳は毎に深居し燕坐し目を瞑って太息し西遷できなかったことを恨みとした。
- この月、上が蔡に至ると、有司に見山亭及び同知衙を修めて遊息の所とすることを命じた。仲徳は諫めて「自古、人君は難に遭って外に播越(避難)すれば必ず痛んで自ら刻苦し、貶損してから旧物を克復できる、況や今、諸郡は残破し保全されているのはただ蔡のみです。蔡の公廨は固より宮闕には及びません、万一の際、野に処し露宿することさえあるでしょう。しかも上はまさに初めて幸された折にすでに民を労して修治させました、今また土木の役を興して安逸を求めれば、人心が解弛して大事を済すことができなくなることを恐れます」と述べた。上はすぐにこれを止めさせた。
- 8月、進馬の遷賞格を定め、毎に甲馬1匹あるいは2匹以上を献上すれば遷賞が差等をもって与えられた。これより西山帥臣の范真・姫汝作らが各々馬を進め凡そ千余匹を得て穆延烏登にこれを領させた。また使者を諸道に分遣して蔡に兵を徴し精鋭万人を得た。また器甲が不完全であることから工部侍郎の珠嘉耀珠に命じて監督して修繕させ、月を踰えずに完成し軍威は稍振るった。扈従の諸人は苟且に一時の安を求め、遂に蔡を守れると考えた。魯山の元帥の元志は軍千余を領して来援し、時に諸帥は往々にして兵を擁して自固していたが、志のみは独り険を冒し数百里を且戦且行し北して蔡にまで至った時にはほとんどその半分を失っていたが、上は表してこれを異とし大信牌を賜り総帥に昇進させた。息州の忠孝軍帥の蔡巴爾・王善爾もまた来援した。
- 壬午、忠孝軍提控の李徳は十余人を率いて馬に乗って省に入り月糧が優遇されないことを大呼し罵詈にほとんど至った。郎中の伊喇克忠がこれを仲徳に白すと仲徳は大いに怒り徳を堂下で縛って杖60を加えた。上は仲徳に「この軍は得力(頼りになる)であり方に倚用しようとしているのに卿はなぜ容忍しないのか、責罰がこのようであってよいのか」と諭すと、仲徳は「今方に多故であり功を録し過を隠すのは陛下の徳です、しかし将帥の職には至らないところがあります、小さな犯には決を加え大きな犯には誅を加え、強兵悍卒を一日たりとも紀律の外に置くべきではありません。蓋し小人の情は縦にすればすぐに驕り、驕ればすぐに制し難くなります、睢陽の禍はどうしてただ官努の罪だけでありましょうか、また有司が縦しすぎたためでもあります。今、前轍を改めようとする以上、その威を惜しむべきではありません、賞は必ず中(皇帝)から出すべきです、罰については、臣がその責を任じます」と述べた。軍士はこれを聞き国が亡ぶまで敢えて犯すことはなかった。
- 9月、蔡城が戒厳し、行六部尚書の富察世達は大兵がまさに至ろうとしていることにより民に晩田を並せて収めさせ、及ばないものは践毀(踏み潰す)して敵に資するのを禁じることを請い、制可された。丙辰、詔で冗員を裁ち冗軍を汰し官吏・軍兵の月俸を定めた。宰執以下、皂隸(下級役人)に至るまで、人月に6斗を支給した。当初、有司が糧を減らすことを定めた際、人は頗る怨望した。上はこれを聞いて軍を三つに分け、上軍は月に8斗、中は7斗、下は6斗給することを望んだが、人はまた不均を怨んだ。すぐに射格(弓射での格付け)を立てると、上・中軍は輒く多く賞を受け、連中(連続的中)した者はあるいは面前で酒を賜り、人はますます勧められた。且つ密かに増加が行われても人は知らなかった、これは仲徳の謀であった。甲子、軍を分けて四面を守った。10月壬申朔、大兵の壕塁が成り兵を城下で耀(示威)した際、旗幟は天を蔽い城中は駭懼した。暮に及んで四関を焼いてその牆を夷し退いた。
- 11月辛丑、大兵は攻具をもって城に迫った。有司は悉く民丁を籍したが防守に足りず婦女で壮健な者を括し男子の衣冠を仮して木石を運ばせた。蔡がすでに囲みを受けると、仲徳は禦備を営画すること未だかつて一日もその家に至ることがなく、軍士を拊存(慰め扶ける)することはその歓心を得ないことはなかった。将校で戦亡する者があれば親しく賻祭してこれを哭し哀を尽くした。己丑、西城が破れた。城中は前もって柵を築き濠を浚って備えていたので、たとえこれ(西城)を克てても入ることはできなかった。ただ城上に柵を立てて南北相い去ること百余歩であった。仲徳は三面の精鋭を摘んで日夕に戦禦させたが、終に拔けなかった。3年正月庚子朔、大兵は正旦の会飲をもって鼓吹し相い接した。城中は飢窘し愁嘆するのみであった。囲城以来、戦殁した者は4帥3都尉、その余、総帥以下は勝計できないほどであった。ここに至って禁近に至るまで、舎人・牌印・省部の掾属まで皆供役に出た。
- 戊申、大兵は西城を鑿って五門とし軍を整えて入り軍を督して鏖戦し暮に及んで退いた。翌日また来ることを声言した。己酉、大兵は果たして再び来た。仲徳は精兵千を率いて巷戦し卯から巳に及んだ。まもなく子城に火が起こったのを見て、上が自縊したと聞いた。将士に「我が君はすでに崩じた、私はどうして戦えようか、乱兵の手で死ぬことに忍びない、私は汝水に赴いて我が君に従おう、諸君はよく計をなせ」と語り終わり、水に赴いて死んだ。将士は皆「相公が死ねる、我らだけがなぜできないだろうか」と言い、ここで参政の富珠哩羅索、烏凌阿呼図、総帥の元志、元帥の王善爾、赫舍哩栢寿、烏庫哩和勒端及び軍士5百余人は皆従って死んだ。
- 仲徳の状貌は常人を超えず、平生喜怒は未だかつて妄りに発したことがなく、人の過ちを聞いても常にこれを護諱(かばい隠す)した。軍旅にあっても手から書を放さず、門生・故吏は毎に名分をもってこれを教え、家は貧しく弊衣糲食(粗末な服と粗食)で終身安楽としていた。賓客を好み人材を薦挙することを喜び、人に一寸の長所があれば口を極めて称道した。その軍務を掌るに賞罰は明信で号令は厳整であった、故に至る所で軍民に用いられ、危急死生の際に至っても一士も異志を持つ者がなかった。南渡以後、将相文武で忠亮終始瑕なき者は仲徳一人のみである。
史論
- 賛に曰く、金の亡ぶことは人材がなかったとは言えない。完顔仲徳・張天綱のような者はどうして将相の器でなかったであろうか。昔、智伯が死んで後もないのに、その臣の豫讓が国士としての報いを忘れなかった、君子はこれを「為すところなくして為す」真の義士であるとみなした。金は亡んだが、仲徳・天綱ら諸臣は守るところを変えなかった、どうして古の義士に愧じることがあろうか。