九公中最強の恒山公と亳州以外の潰走
- 武仙、威州の人。ある者はかつて道士であったと言い、時人はこれによって「仙」と呼んだ。貞祐2年(1214年)、仙は郷兵を率いて威州の西山を保ち、附する者は日々衆くなった。詔で仙を権威州刺史とした。興定元年(1217年)、真定で石海を破ると宣差招撫使の惟宏が加官・賞与を請い、真に威州刺史兼真定府治中権知真定府事を授け、洺州防禦使兼同知真定府事遥授河平軍節度使に遷った。興定4年(1220年)、知真定府事兼経略使に遷り遥領中京留守権元帥右都監とした。まもなく恒山公に封じられ、中山・真定府・沃・冀・威・鎮寧・平定州・抱犢寨・欒城・南宮県がこれに隷した。同時期の九府のうち財富と兵強では恒山が最も盛んであった。
- この歳、大元に帰順した。副使の史天倪が真定を治め、仙の兄の貴は安国軍節度使であったが史天祥がこれを撃つと貴もまた大元に帰順した。仙は史天倪と共に真定を治めることすでに6年、積って相能わず、天倪が己を図る(謀ろうとする)ことを懼れ、かつて南に走ろうとした。宣宗はこれを聞いて詔で樞密院に牒でこれに詔し、仙は牒を得て大いに喜んだ。正大2年(1225年)、仙は賊のように史天倪を殺し再び真定をもって降った。大元の大将のサナタイがこれを討ち、仙は走ったが月を経て夜に乗じて再び真定に入った。サナタイは再びこれを撃ち、仙は遂に汴京に奔った。5年(1228年)、哀宗に召見され、樞密判官の白華にその礼儀を導かせ、再び恒山公に封じられ府を衛州に置いた。
- 7年(1230年)、仙は上党を囲んだが、まもなく大兵が至り仙は遁走した。まもなく衛州が囲みを受け内外が通じなくなると、詔で平章政事の哈達、樞密副使の布哈にこれを救わせ、仙の兵を胡嶺関に徙屯させ金州路を扼させた。8年(1231年)11月、大元兵が襄漢を渉ると哈達・布哈は鄧州に駐まり、仙は荊子口から鄧州軍と会した。天興元年(1232年)正月丁酉、哈達・布哈は三峰山で敗績し、仙は40余騎に従って密県に走り御寨に趨いたが都尉の烏凌阿呼図はこれを納れず、危うく追騎に捕らえられそうになったが、そこで馬を舎てて歩き嵩山絶頂の清涼寺に登り、登封蘭若寨の招撫使の和卓・僧秀に「私はどうして敢えて汴京に入ろうか、一旦急あれば私を縛って大国に献じるだろう」と語り、遂に南陽の留山に走った。
- 潰軍を収めて10万人を得て留山及び威遠寨に屯し官府を立て糧食を集め器仗を修めると兵勢は稍振るった。3月、汴京が囲みを受けると哀宗は仙を参知政事樞密副使河南行省とし、詔で鄧州行省の色埒と兵を合わせて入援させた。8月、密県東に至って大元の大将の蘇布特の兵に遭いこれを過ぎた。仙はすぐに軍を眉山店に按じ色埒に「澗を阻んで営を結び仙が至るのを待って共に進もう、そうでなければ敗れるだろう」と報告した。色埒は急いで汴に至ろうとし聴かず、京水に行き至って大兵がこれに乗じると戦わずして潰えた。仙もまたその軍に散走を令し留山での再会を期した。仙が留山に至ると潰軍で至る者はますます衆くなった。哀宗は色埒を罷めて中京留守とし、仙に「色埒は兵を知らない、先に卿の澗を阻む策に従っていればどうして敗があろうか、軍務は一に卿に付す、日夕待つ以て力を戮し心を一にして後挙を図れ」と詔した。11月、刑部主事の烏庫哩呼嚕を遣わして仙を召したが仙は行くことを欲せず上疏して利害を陳べ3月間、生死に応じて入援することを緩めることを請うた。
- 当初、色埒が鄧州に至った際、承制して宣差総領の洪果薩哈を五朶山一帯行元帥府事兼行六部尚書に授けたが、仙が留山に還るに及んでその権が盛んなことを悪み征行元帥に改め比陽に屯させた。薩哈は仙がその権を奪ったことを恨み、遂に大元に帰順した。大元の大将の蘇布特は薩哈に裕州を守らせた。薩哈はすぐに詐って書をもって仙に裕州を取れば志を得られると約したが、仙はこれを信じた。薩哈はすぐに大元の大将にこれを報告し兵を遣わして夾撃し仙を柳河で敗らせた。仙は跳走して聖朶寨に走った。当初、沈丘尉の曹政は承制で西山に兵を召したが、裕州防禦使の李天祥が命に従わないため政はこれを斬って徇(見せしめ)とした。仙は聖朶に至って政に「何故に擅に吾が将を誅したのか」と述べると、政は「天祥は詔に違い逗遛して行かなかった、政は便宜をもってこれを斬った」と答えた。仙は怒って「今日、宣差が来て起軍し、明日、宣差が来て起軍し、これによって軍卒の戦亡がほとんど尽きてしまった。以後、どんな人が選ばれて来ても聴くべきでない、しかも児郎輩(部下)に山中で休息するよう教えよ」と述べ、また「天祥に果たして罪があれば私が来て処置するのを待つべきなのに、お前は何者か軽々にこれを殺したのか」と述べた。政は「参政は柳河で失利し存亡が分からなかった、天祥は詔に違ったのになぜ殺すべきでないのか」と述べると、仙は大いに怒って左右を叱し政の佩びる銀牌を奪い、総領の楊全にこれを械繋させた。
- ちょうど赦があってもなおこれを囚え、仙が敗れるに及んで初めて釈放されると楊全と共に宋に降った。この時、哀宗は帰徳に走り、翰林修撰の魏璠を間道から遣わして仙を召そうとし、行きて裕州に至ったところちょうど仙が柳河で敗れたと会し、璠は詔を矯め潰軍を招集して仙を待った。仙は璠が己を図ろうとしていると疑った。2年(1233年)正月、仙は兵を閲し選鋒はなお10万あった。璠は「主上は旦夕に西を望み公を望んでいる、公は長く北に留まるべきではない」と述べた。仙は怒ってほとんど璠を殺すところであった。璠及び呼喇勒は帰徳に還り、仙はすぐに璠を誅すことを奏請したが哀宗は聴かず璠を歸徳元帥府経歴官とした。璠、字は邦彦、渾源の人、貞祐2年(1215年)進士という。
- 仙の部将の董祐は戦功があり詔で虎符を賜ったが、仙は彼が己に迫る(脅威となる)ことを畏れ久しく佩びさせなかった。祐はこれを恨みすぐに官努と結んで仙を殺そうとしたがまだ躊躇して発することができなかった。近侍局使の完顔四和は謀があり敢えて断行し、かつて鄧州で兵を徴した際、御牧使の伊喇愛罕に異志があり四和は計をもってこれを誅した。祐は四和に「仙は終に肯えて入援しない、祐らは位が卑しく力ではこれを誅せない、ただ君のみが国家のためにこれを図れる」と語らせた。四和は「すでに愛罕を殺した上に再び武仙を殺せば、他日使者が来ても人は誰が信じようか」と述べ従わなかった。仙は祐がかつてこの謀を持っていたことを知り、祐を河北の使いに遣わし、その後結局これを殺した。
- 3月、仙は聖朶の軍食が不足したことにより軍を鄧州に徙し鄧州総帥の伊喇瑗に給を仰いだが、鄧州の倉廩もまた乏しかったため、軍を新野・順陽・浙川に分けて民家に食を求めさせ、講議官の朱槩・劉琢を遣わして糧を宋の襄陽に借りに行かせ制置使の史嵩之に借りさせた。琢と槩は両端に迷い留められることを畏れ、そこで実情を史嵩之に告げ「仙の兵勢はもはや振るわない」と述べ、また「糧を借ると名づけているが実は納款したい、将軍の一諾を待つのみだ」と述べた。嵩之はこれを実だと考え田俊を遣わして書を持たせ仙に報せた。4月、仙は大理少卿の張伯直を遣わして糧を襄陽に取らせ、軍を小江口に屯してこれを待った。嵩之は張伯直が至ったと聞き大いに喜び仙が送款したと考えた。書を開くと謝状であった。大いに怒り伯直を留めて遣わさなかった。
- 仙は順陽から鄧州に入り、伊喇瑗は畏れ迫って娘を仙に嫁がせ、仙は疑わずこれを納れた。すぐに順陽に遷った。鄧州の糧が尽きると瑗は終に仙を疑うようになった。5月、瑗は城を挙げて宋に降った。嵩之はますます仙の軍の虚実を知り、孟珙に兵5千を率いさせ仙の軍を順陽で襲わせた。この時、仙は亡卒に麦を刈らせ軍に供させていたが、まだ2里も及ばないところで気づき、仙は帳下の百余人を率いて迎撃したが孟珙は敢えて前進しなかった。まもなく軍士が稍集まり5、6百人になると孟珙の兵を大敗させ、珙と数百人は脱走したが統制・統領数十人を生擒し馬千余を獲た。ここに至って槩・琢が妄りに納款を嵩之に語った説が漏れた。仙は皆これを誅した。伊喇瑗、本名は聶赫、字は廷玉、世襲契丹明安、累功で鄧州便宜総帥となっていた。すでに襄陽に至った後、姓名を改め「帰正人劉介」と称し将校の礼具を持って制置使に謁えた。瑗は大いに悔恨し、翌年3月、疽が背に発し死んだ。
- 孟珙は敗れて去ったが、仙は宋兵が再び来ることを懼れ、7月、浙川の石穴に徙った。この時、哀宗は蔡州にあり、近侍の烏頁を遣わして仙に赴難を責めさせた。詔に「朕は平日、未だかつて卿に負ったことはない、国家の危難がここに至って忍びて兵を擁して自ら恃み坐して滅亡を待つのか」とあった。将士はこれを聞いて相視して哽咽し、皆国と生死を共にすることを願った。仙は衆心が変ずることを懼れ、すぐに馬牛を殺して将士3千人と歃血し国家に負かないことを誓約すると、衆は大いに喜んだ。まもなく仙は再び衆に「蔡州道は梗(阻まれて)我が兵食は少ない、恐らく至ることはできまい、しかも蔡は堅守できない、たとえ至っても無益であろう。近ごろ人を遣わして偵察させたところ、宋の金州の百姓が山に拠って柵を作り、極めて険固で広袤(広さ)百里、積糧は約3百万石という。今、汝曹と共にこれを図ろう、労せずに下せるはずだ、老弱をこの寨に留めて根本とし、然る後に勁勇を選んで蔡に趨き上を西幸に迎えるのもまだ遅くはない」と述べた。衆がまだ応じないうちにすぐに行李を戒め浙川から流を溯って上らせたが、山路は険阻でしかも霖雨が旬日続き水湍は悍く、老幼・弱者で死んだ者は勝計できず、糧食が絶えて軍士の亡ずる者は8、9割に及んだ。仙は計として出す策もなく、8月、荊子口から東還した。
- 内郷から聖朶寨に入ろうとし峡石左右の八畳・秋林に至ると総領の楊全がすでに宋に降ったと聞き秋林に10日留まり、すぐに太和に遷った。9月、黒谷泊に至ると進退窮まり遂に北走を謀った。行部尚書の盧芝、侍郎の石玠は従わなかった。芝、字は廷瑞、河東の人、任子で官に補せられ西安軍節度使行尚書であった。玠、字は子堅、河中の人、崇慶2年(1213年)進士、汝州防禦使行侍郎であった。二人は相与に謀って「私らは仙が国家を恤しまないことを知って久しい、諫めても従わない、去るのはまだできない、事が今日に至っては正しく蔡州で一死を欠くのみだ、たとえ蔡州に至れずに道中で死んでも仙と共に死ぬよりましだ」と語った。すでに去って仙はようやくこれに気づき、玠を追って殺した。芝は南陽に走ったが土賊のために害された。甲午(天興3年、1234年)、蔡州が破れ糧はまさに尽き将士は大いに怨み皆散じ去った。仙は帰るところがなくなり、18人に従って北渡し、また5人が亡じた。5月、澤州に趨いたが澤の戍兵に殺された。