金史卷一百十八 列傳第五十六 王福

滄州の孤軍とその崩壊

  • 王福、本来河北義軍。戦功を積み累遷して同知横海軍節度使事滄州経略副使となった。興定元年(1217年)、福は提控の張聚・王進を遣わして濱・棣二州を復させ聚に棣州防禦使を摂させ進に濱州刺史を摂させた。久しくして福と聚は隙が生じ、聚は棣州をもって益都の張林に附いた。興定3年(1219年)9月、福は「滄州は東は滄海に濱し西は真定に連なり北は大兵に備える、要地と言える、重臣を選んで経略使とし便宜従事させ軍民を鎮撫させることを乞う」と上言した。朝廷は福が初め義兵を率いて滄州を復し残民を招集して今衆万余を有し器甲が完具で一方に雄たり、益都の張林・棣州の張聚と皆隣境をなしていることにより、今、利津がすでに守られなくなり遼東への道路は艱阻であり、しかもその意は本来自ら為したいだけでただ辞にかこつけているだけであろう、これに因ってこれを授け濱・棣の人を招集させ遼東との音信を通じさせるべきである、今もし許さなければ、宋人があるいは大軍をもって迫脅しあるいは官爵をもってこれを招くかもしれず、将来後悔を貽すだろうと考えた。
  • 宣宗はこれを然りとし、福を本州経略使とし自ら副使を選ばせた。ちょうど福に戦功があり遥授同知東平府事に遷り権元帥右都監経略節度はもとの通り。興定4年(1216年)、滄海公に封じられ清・滄・観州、鹽山・無棣・楽陵・東光・寧津・呉橋・将陵・阜城・蓨県がこれに隷した。4月、紅襖賊の李二太尉が楽陵を寇し棣州の張聚が来攻したが福は皆これを撃却した。李二は再び鹽山を寇し経略副使の張文がこれと戦い李二は大敗しその統制二人を擒え首2千級を斬り馬30匹を獲た。7月、宋人と紅襖賊が河北に入り、福は嬰城固守したが、益都の張林・隣州の張聚は日々来攻掠し滄州は危蹙し福はまさに南奔しようとしたが衆に止められ、遂に張林に納款した。
  • 東平元帥府は福討伐を請い、河南の歩卒7千・騎兵5百を益し滑・濬・衛州が芻糧を資助することを乞い、先に賞格を定めて功ある者を待とうとした。朝廷は防秋が近く河南兵は往くことができず、東平の兵は少なく独りで成功できず、来年春を待って東平帥府に高陽公と併力して討伐させることとしこれを止めた。