軍戸給田の建策と哀宗の最後を看取る
- 舒穆嚕世勣、字は景畧。幼くして学に勤め文をなすに体裁があった。承安2年(1197年)、父の元毅が王事に死んだことにより収充擎執(近侍見習い)とされた。5年(1200年)、詞賦・経義南科進士に及第。貞祐3年(1215年)、累官して太常丞となり講議所の事に預った。この時、朝廷は河北の軍戸を河南に徙し、宰職が田を給することを議していた。世勣は「荒閑の田及び牧馬地はその始め耕墾するのに力を要し当然一歳では熟することはできない、もし民が素より蒔いている(耕している)ものを奪ってこれに与えれば、民は失所となり、しかも不和の端を啓くことになる、況や軍戸は率いて耕牛がなく、たとえあったとしても廩給が輒く減らされることは敢えてできまい。彼らは既に南から来ており捐てた田宅は他人のものになっている、一旦北に帰ることになれば争奪がないでいられようか。切に思うに、軍戸に人を分けて帰らせ本業を守らせ、その晩禾を収めさせ春に至って復び還らせ固守の計とするのがよろしいと考える」と上言した。ちょうど侍御史の劉元規もまた田を給するのは不便であると言い、上は大いに悟りこれを罷めた。
- まもなく同知金安軍節度使に遷った。興定2年(1218年)、選ばれて華州元帥府参議官となった。当初、右都監の完顔哈達は帥府を楨州で行った際、かつて前同知平涼府事の珠勒呼富聶遜を参議とし、華州に移駐するに及んで陝西行省は再び富聶遜を用いることを議し世勣にこれを副えさせようとした。上は「富聶遜はただ人に承奉できるのみで他に長ずるところはない、世勣のように任事できるわけではない、華は要鎮であり軽々にその人を用いれば敗事を招くかもしれない」と述べ遂に独り世勣を用いた。まもなく入って尚書省左司郎中となった。元光元年(1222年)、官一階を削られ解職。当初、世勣が華州にあった時、その銭穀に深く通じていると薦める者があったが、覆察するとその挙が言うほどではなく、しかも後に主者が挙覚(発覚)した際、平章の英王は世勣が都司の煩雑を避けて私かに治籍吏を属して他の職への改任を冀んでいたとみなし奏で有司に下したため、故にこの責があった。久しくして礼部侍郎に起用され司農に転じ太常卿に改まった。正大中、礼部尚書兼翰林院侍講学士となった。
- 天興元年(1232年)、哀宗がまさに北渡しようとした際、世勣は朝官の劉肅・田芝ら20人を率いて仁安殿で見えることを求めた。上は「卿らは何を言いたいのか」と問い、世勣は「臣らは陛下が親出を欲していると聞きます、切に思うにこの行は不便であります」と述べた。上は「私が出なければ軍は二つに分かれる、一軍は守り一軍は戦う、私が出れば軍は一つに合わせられる」と述べた。世勣は「陛下が出れば軍は三つに分かれます、一は守り、一は戦い、一は中軍の護従です、出ないことに如くはありません」と述べた。上は「卿らは知らないのだ、私がもし完顔仲徳・恒山公武仙を得てこれに兵事を付せば、どうして私が出る労を要しようか、私はどうして知らないでいられようか、今日、兵を将いる者は官努が馬兵3百を統べるのみ、劉益が歩兵5千を将いるのみだ、自ら将いないでいられようか」と述べた。上はまた御榻を指して「私のこの行は再びは還る期はないだろう、ただ私に罪なくして国が亡ぶことを恨む、私は未だかつて奢侈したことはなく未だかつて小人を信任したこともない」と述べた。世勣は応声して「陛下は小人を用いたこともあります」と述べた。
- 上は「小人とは誰のことか」と問い、世勣は歴数して「伊喇寧古・温都察遜・烏色・完顔長楽は皆小人です」と述べた。「陛下がその小人であることを知らなかったから用いたのです」と。肅と世勣はさらに多く言うことがあり、良久しくして君臣は涕泣して別れた。当初、肅らが見えることを求めたのはもとよりこの四人を数え上げるためであったが、ここに至って世勣独りがこれを言った。ここで哀宗は世勣を蒲城から帰徳に至るまで従わせた。翌年6月、蔡州に走った際、新蔡県の姜寨に次った折、世勣の子の嵩は時に県令であり上を馬前で拝した。兵乱の後、父子は初めて相見えた。上はこれを嘉して嵩に応奉翰林文字を授け親を養う便を図らせた。蔡城が破れると父子は共に死んだ。嵩、字は企隆、興定2年(1218年)経義進士。
史論
- 賛に曰く、愛実は衛・鎬の家属禁錮の虐、京城括粟の暴、近侍干政の横を言い、世勣は河北軍戸への給田の不便、親出渡河の非計を言った、皆薬石(有益な諫言)の言である。しかし金はこの時に至って病は膏肓(治療不能な段階)にあった、倉扁(名医の扁鵲)といえどもどう施せようか。彼らの忠讜(忠実で正直)を廃すべきではない。