西辺の功績と国難期の誤断
- 内族博索、一名は承裔、末帝承麟の兄である。系は世祖の諸孫より出る。幼くして奉御となった。貞祐間、累官して知臨洮府事兼本路兵馬都総管とし、興定元年(1217年)元帥左都監として帥府事を鳳翔で行った。この年、詔で陝西行省が伐宋にあたり、博索は鞏州の塩井から出て宋兵に皂郊堡で遭いこれを敗り、また宋兵に天水軍で遭い掩撃して宋兵は大潰した。2年(1218年)4月、再び宋兵を敗り雞公山に至って遂に西和州を抜きその諸隘の営屯を毀した。哈済都統の完顔薩尼雅布を遣わして軍を率いて成州に趨かせると、宋帥の羅参政・統制の李大亨は廬舎を焼いて城を棄てて遁れ、千余人を留めて城を守らせたが督兵してこれに赴きついに克った。糧7万斛・銭数千万を獲た。河池県守将の楊九鼎もまた県舎を焼いて走り清野原を保った。統制の高千は黒谷関に拠って甚だ固く守っていたが、兵を遣わしてこれを襲うと千は遁れ、糧2万斛・器械もこれに相当する数量を獲、その険を夷(平らげ)して還った。
- 3年(1219年)、虎頭関を破り宋兵を七盤子・鶏頭関で敗った。褒城県の官民は城宇を自焼して遁れたためその城を取った。興元府提刑兼知府事の趙希昔は兵がまさに至ると聞いて官民を率いて遁れ、博索はここに興元を取って駐兵した。提控の張秀華に馳せて洋州を視させると官民もまた遁れておりまたその城を取った。まもなく漢江の南30里に宋兵2千が山に拠って陣していると聞き、提控の唐古伊実布を遣わしてこれを撃走させた。行省が捷をもって聞かせると宣宗は大いに悦び、博索の官一階を進めた。時に朝議は蘭州が西夏の衝に当たり久しく敵に拠られているとして博索を遣わしてこれを復させようとしたが、博索は「臣は近ごろ宋境に入り河池を略し鳳州を下し興元を破って洋州に抵って還った、険阻を経渉すること数千里、士馬は疲弊しまだ少しも休めていないのにさらにこの挙をなすのは甚だ計に非ず、兵を息め士を養って備えるに如くはない」と奏しこれに従われた。まもなく権参知政事として平涼で行省事した。
- 4年(1220年)、上言して「宋境の山州である宕昌東上拶の一帯の蕃族は昔かつて帰附し徳順・鎮戎の間に分処していたが、その後有司が存撫できず相継いで亡去した。近ごろ再び帰心があると聞くが、招かなければ自ら至る由もない、誠にその衆を得れば兵を助け一方を寧謐にできる。臣は同知通遠軍節度使事の烏庫哩長寿及び通遠軍節度副使の温騰永昌が皆本蕃属でしかも久しく辺鄙を鎮め深く彼らの心を得ていることにより、すでに人を遣わしてこれを招くよう命じた、遣わした者及び諸々の帰する者は皆甄奨すべき、賞格を予め定めてこれを待つことを請う」と述べ、皇帝はこれを是とした。この年夏、夏兵3万が高峰嶺から入寇し定西州を環城で栅とした際、博索は刺史の愛紳愛実拉に行軍提控の烏庫哩長寿・温騰永昌と出戦させこれを大敗させ首千余を斬り馬仗を甚だ多く獲た。
- 5年(1221年)5月、博索は「近ごろ詔で臣は官を遣わして諸蕃族に西夏討伐を諭させたが、臣はすぐに臨洮路総管の鈕祜祿古爾錦に覚嘉巴哩族の首領と計約させこれをもって余族を諭させ、また別に権左右司都事の趙梅を遣わして委差官の遥授合河県尉劉貞と同往させ撫諭させた。まもなく梅・貞が溪哥城等の処の諸族が先に降った族と共に願わくは兵7万8千余人を助けたいと言っていると報告した、本国の蕃族も兵9千を助けたいと願っており、もし官軍をもってさらに声援を継げば夏に勝つのは必定であろう、臣はすでに古爾錦に鞏州兵3万を将わせているが、さらに勇略の臣を選んでこれを副えるべき。梅・貞らはすでに事勢を悉く知っている以上、軍前の職を仮すべき、蕃僧の納琳沁博もまた招誘に功があった、官を遷し職を授けてこれを奨励することを乞う」と述べ、皇帝は皆その請に従った。
- 元光元年(1222年)2月、行省は「近ごろ延安元帥の完顔哈達・納哈塔邁珠と河北郡県はすでに残毀され、陝西・河南もまた抄掠を経ていることを議した、比来西北の二敵が併せて鄜延を攻め城邑が随って陥落し、ただ延安の孤城のみが僅かに保全を得ている、もし今秋再び至れば必ず長駆深入するだろう、京兆・鳳翔・慶陽・平涼はすでに各々軍を益しているが率いて皆歩卒で、しかも相去ること闊逺で卒に応援しにくい、もし関中の諸鎮が支えなければ河南もまた不安である、今二敵は遠く去り西北がやや休んでいる、この隙に乗じて径ちに蜀漢を取るべき、実に国家の基業を万全にする計である」と上言、詔で樞密院にこれを議させた。先に夏兵数十万が龕谷・鄜延・大通の諸城を分寇した際、皇帝は博索らを召して方略を授け発兵してその浮橋を襲わせ遂に西涼に趨かせ、別に将を遣わして大通城を取らせ、溪哥路を出て夏地を略させ、博索は徐に鎮戍に出て哈達は環州に出てこの二道の役に報いさせた。博索は臨洮に馳せ至り総管の鈕祜祿古爾錦と積石州刺史の図克坦雅爾烏に各々帥職を摂させ兵を率いて西入させ夏兵千余に踏南寺で遭いこれを撃走させた。
- 夏人が大通城に拠っておりこれを囲むと、兵を分けてその橋を奪い守兵7千人と戦って大敗させ、ほとんどその半分を殺しあるいは河に入って死した者は数えきれなかった。残兵は橋を焼いて西に遁れ、博索は還って軍を大通城攻めに向かわせこれを克ち首3千を斬った。これにより招来された諸寺族の脅されていた僧俗人は皆按堵(安住)できるようにされた。河梁(橋)がすでに焼かれ塞外の地は寒く草が少ないため師は遂に還った。12月、行省は「近ごろ北方から来た者があり、国王穆呼哩は兵を悉く渭に沿って西し鳳翔を攻めようと謀っており、鳳翔が既に下れば京兆を図る、京兆が卒に得られなければ兵を留めて守らせ、春に至って二麦を蹂躙して我を困らせるつもりだと言った、まもなく大兵が果たして鳳翔を囲み帥府が人を遣わして急を告げた、臣はこの二鎮は唇歯であると考える、鳳翔が蹉跌すれば京兆は必ず危うくなり陝右は大いに震えるだろう。しかし平川広野は実に騎兵が馳騁する地であり彼らと鋒を争うべきでない、すでに提控の羅桓に兵2千を将わせ南山に循って進ませ隙を伺ってその柵塁を攻めさせ城囲を紓めさせている、さらに河南の歩騎を発して潼関に備えることを乞う」と述べ、詔で尚書省・樞密院にこれを議させた。
- 2年(1223年)冬、哀宗即位、辺事はますます急を告げた。正大5年(1228年)8月、博索を朝に召還し尚書右丞を拝命、まもなく平章政事を拝命した。博索は西垂に居ること幾10年、宋・夏の交渉に当たって頗る微効を立てたとはいえ、皆諸将の力によるもので、人となりは本来恇怯で無能、徒に儀体をもって事とした。性は愎(頑固)で貪鄙、相に入ってからは専愎(専断で頑固)がとりわけ甚だしくなった。かつて堂食(官庁の食事)が口に適わないことを悪んで毎に家膳を自ら随えていた。国家が顛覆しようとしても初めから恤しむことなかった。
- 9年(1232年)正月、諸軍が三峰山で敗績し、大兵が白坡兵と合流して長駆して汴に趨いた際、令史の楊居仁は敵が遠くから至った隙に乗じて撃つべきと請ったが博索は従わず、しかも密かにこれを怒った。遂に完顔莾伊蘇・邵公茂らに部民万人を遣わして短堤を開いて河水を決させ京城を固めさせようとしたが、功が未だ畢わらないうちに騎兵が奄至しモウ莾伊蘇らは皆害を被り、丁壮で反ることを得られたのは2、3百人に満たなかった。壬辰、衛州を棄てて守を運(放棄)した。当初、大兵が衛州を破ったため宣宗の南遷後、州治を宜村渡に移し新城を河北岸に築き、河から数歩しか離れておらず、ただ北面のみが敵を受け石で包んでいた。歳々ここに重兵を屯していたが大兵はしばしば至っても近づくことができなかった。ここに至ってこれを棄て随って大兵に拠られてしまった。
- 甲午、京城の楼櫓を修めた。当初、宣宗は京城が闊遠で守り難いことにより詔で高琪に裏城を築かせ公私の力を尽くしてようやく成すことができた。ここに至って守るべき所を議した際、朝臣は裏城は決して守れず外城は決して棄てられないと言う者もあった。大兵が先に外城を得れば糧が尽き救援も絶えて誰一人出て来ないだろう、裏城なら万一に備えられると、そこで外城を守ることが決断された。この時、城内の諸軍は4万に満たず、京城は周囲120里、人が一乳口(守備区画)を守るのでさえまだ徧く行き渡らなかった、故に避遷の民を軍に充てることが議された。また京の軍官で上清宮の平日の防城で功を得た者を召したところ、内族按春塔呼喇・劉伯綱らが随って召されて出、長を截り短を補い借用してこれを用い、すでに百余人を得た。また京東西の沿河の旧屯の両都尉及び衛州のすでに起きた義軍を集め、通じて建威で4万人を得、丁壮6万を益し4城に分置し、毎面別に一千名の飛虎軍を選んで専ら救応させたが、それでもなお軍としてまとまらなかった。
- 3月、京城が攻められ大臣が四面に分守した際、博索は西南を主って攻めを受けることが最も急だった。楼櫓がまさに成ろうとするたびに輒く摧かれ、竹を取って護簾を作らせるよう伝令したが、所司が城中に馳せ入って大いに捜索しても結局得られるものがなかった。博索は怒ってこれを斬ろうとしたが、員外郎の張衮が所司に耳打ちして「金が多ければ済むだろう、なぜすぐに平章府に求めないのか」と言った。所司は金3百両を懐にして直ちにその家僮の許に行くと果たしてこれを得た。まもなく兵が退くと朝廷は博索を罷めることを議した。博索は自ら安んじられず、令使の元好問に「私は賢路(賢者の道)を妨げること久しい、退くことができれば幸いだ、私のために致仕を乞う表を作ってくれ」と述べた。まもなく皇帝はすでに使者を遣わして詔を持たせその邸に至らせ致仕を命じた。
- 既に廃されると、軍士はその戦わずして国を誤ったことを恨み殺そうとする声を揚げた。博索はこれを恐れ一夕に数度居を遷った。皇帝は親軍2百でひそかに彼を衛らせたが、軍士は憤を晴らすすべなく遂に相い率いてその別墅を毀して去った。その党の元帥完顔薩尼雅布は本部軍を領して汴を戍っていたが、これを聞くと直ちにその場所に赴き経垣(塀を越える者)にあった一人を斬ってこれを鎮めた。この時、蘇布特らの兵は散じて河南に屯し、汴城の糧はまさに尽き、しばしば援兵を召しても再び至る者がなかった。冬10月、再び博索を起用して平章政事権樞密使兼右副元帥とし、ここで群臣は皇帝のために出京の計を画き、薩布を右丞相樞密使兼左副元帥、内族恩楚を右副元帥兼樞密副使権参知政事、李蹊を兵部尚書権尚書左丞とし、図克坦拜扎を元帥左監軍として統帥府事を行わせた。
- 東面元帥は高顕(副は果毅都尉鈕祜禄耀珠、兵5千)、南面元帥は完顔殊爾(副は建威都尉完顔額埒春、兵5千)、西面元帥は劉益・上黨公張開(副は安平都尉紀綱、軍5千)、北面元帥は内族羅索(副は振威都尉張閏、軍5千)、中翼都尉は賀得希(軍4千、総帥伯嘉に隷す)、都尉は内族玖珠(副都尉王簡、総領王福允、神臂軍3千5百)、左翼元帥は内族小羅索(親衛軍千)、右翼元帥は完顔按春(親衛軍千、総領は完顔長樂)、副元帥は温騰察遜(馬軍3百)、郡王王義深(馬軍150)、郡王范成進(総領蘇元孫、珪軍3千、総帥伯嘉に隷す)、飛騎都尉兼和爾和は総領珠格扎勒罕、総領は瓜爾佳都伯、乣軍田重嘉努ら百人及び諸臣が京師を発した。
- 12月甲辰、車駕が黄陵岡に至った。博索が先に大兵の両寨に降り河朔の降将を得ていたことから、皇帝はこれを赦し印及び金虎符を授けていた。群臣は河朔の諸将を前導とし鼓行して開州に入り大名・東平を取れば豪傑には響応する者があり破竹の勢いになるだろうと議した。温騰察遜は「太后・中宮は皆南京にあり、北行して万一意の如くならなければ聖主は孤身で何をするというのか、もし帰徳に往いてさらに5、6月も還れないなら、先に衛州を取って京師に還る方が便宜であろう」と述べた。博索は「聖体は鞍馬に便ならず、しかも大兵に上の所在を知らせるべきではない、今は帰徳に駐まるべき、臣らは降将を率いて東平に行き諸軍が到着すれば一鼓で下せる、これによって河朔を経略し且つ河南の軍を空にできる」と奏した。皇帝はこれを然りとした。この時、上はすでに官努に3百騎を将わせ漚麻岡を探らせて未だ還っていなかったが、皇帝は御船を博索に賜い剣を持たせ便宜従事を許し東平の策を決しようとした。官努は遂に衛州に糧があり取れると奏したところ、皇帝は博索を召してこれを問うと、博索は「京師さえ守れないのに、衛州を得て何をしようというのか、臣が観るには東平の策が便である」と述べ、皇帝は官努の議を主った。
- 翌年正月朔、黄陵岡に次ったこの日、帰徳の守臣が糧糗3百余船で来て餉した。遂にその舟をもって渡ろうとしたが南岸で未渡の者は万人に及んだ。大元の将の和爾古納が4千騎を率いて追いかけると、賀得希は一つの黄旗を揮って督戦し、身に16、7箭を受けながら軍は殊死に戦い10余人の卒を得た。大兵はやや却き、皇帝は酒百壺を送ってこれを労った。須臾にして北風が大いに起こり舟は皆南岸に吹き寄せられ、諸兵が再びこれを撃つと溺死者は近千人、元帥珠爾・都尉赫舍哩額琳らはこれに死んだ。建威都尉の完顔額埓春は大元に降った。皇帝は北岸からこれを望んで震懼し従官を率いて珠爾らのために祭を設けてこれを哭し、皆官を贈り子姪を録用し、額埓春の二人の弟を斬って人々に示した。
- 遂に博索に衛州攻撃を命じ、皇帝は河上に駐兵し親衛軍3千・護従都尉高顕の歩軍1万・元帥官努の忠孝軍千・郡王范成進・王義深・上黨公張開・元帥劉益らの軍・総帥伯嘉がこれを総べる軍を留め、各々10日分の糧を齎して承裔の節制に聴い蒲城から発した。この時、上はすでに薩布に馬軍を将わせ北向させていたが、博索は30騎で追及し薩布に「旨があって我に馬軍を将わせている」と述べたが、薩布は上に「北行の議はすでに決した、中変すべきでない」と述べた。上は「丞相は当然平章と和同すべきだ」と述べたが、完顔仲徳は輿馬を持って苦諫し「存亡はこの一挙にかかっている、衛州は決して攻めるべきでない」と言ったが、上はこれを麾って「参政は知らぬのだ」と述べ、博索は遂に衛州を攻めた。
- 兵は城下に至り御旗・黄傘で招くも下らず、その夜、北騎3千が奄至した際、官努・哈薩喇・烏達布・按春が力を併せて拒戦し北兵は6十里退いた。しかし蒲城を発してから遷延すること8日でようやく衛に至り、しかも猝には攻具がなく槍を縛って雲梯としたが、州人は攻められないことを知り守りを益々厳しくした。凡そ3日攻めても克たなかった。河南の大兵が張家渡から済ったと聞くに及び衛西南に至り遂に班師した。大兵はその後を踵いて白公廟で戦い敗績、博索らは軍を棄てて遁れ、劉益・張開は皆民家に殺された。車駕が蒲城の東30里に還って次った際、博索は人を遣わして密奏し劉益一軍が叛去したと告げた。点検の穆延烏登・総領温騰察遜は時に侍行しており帳中で上に舟に登ることを請うたが、上は「まさに決戦すべき時に、なぜにわかに退くのか」と述べた。少頃して博索が至り倉皇として上に「今、軍はすでに潰え大兵は近く堤外にある、聖主は帰徳に幸するを請う」と言った。上は遂に舟に登り、侍衛は皆巡警をいつも通りに行い気付かなかった。時にすでに夜4更であった。遂に狼狽して帰徳に入った。
- 博索は潰兵を大橋で収め2万余人を得たが、恐れて敢えて入城せず、上はこれを聞いて近侍局提点の伊喇寧古と護衛の赫舍哩阿里哈の二人を遣わして舟でこれを迎えさせた。至ると入見を聴されず子と共に下獄させた。諸都尉司の軍は博索が戦わずして退いたことにより憤って怨言を出し、上はその罪を暴いて「ただ汝ら将士は明らかに朕の言を聴け。我が大軍を提げ黄陵岡に初めて次った時、捷を得ると博索はすぐに『渡河して衛州を取るべし、糧10万石が得られ勝ちに乗じて河北を恢復すべき』と奏したため、我はその計に従いその率いる諸軍に衛州を攻めさせた。蒲城を去ること2百余里、博索は遷延すること8日でようやく至り、また攻具を予備しなかったため敗衂を招いた。博索は軍を棄てて蒲城に竄還すると、すぐに諸軍がすでに潰えたと言い、北兵の勢いが大きいので信従すべきでないのに、舟に登ってほとんど水に死にかけた。もし当時、諸軍が未だかつて潰えなかったこと、ただ河北で戦死したことのみが知られていれば、名を後世に垂れることもできたであろう。今、博索はすでに下獄した、再び録用しない、その家産を籍して汝らに賜う、その国家のため力を尽くして無効なこの人を囚え、博索を7日で餓死させよ」と述べた。その弟の承麟の子の果勒は徐州に安置させた。当時の議者は衛州の挙は本来官努から出ており博索に帰するのはこれも過ぎたるものだと言った。
- 当初、河に沿った居民は官軍が北渡すると聞いて垣を築き戸を塞ぎ洞穴に潜伏していたが、官努の一軍の号令が明肅で撫勞が周悉、通過する所に絲髪の犯すもなかったのを見て、老幼婦子は坦然として相い見て復び畏避することがなかった。ところがまもなく博索の輩は軍を縦って四出させ剽掠・俘虜・挑掘・焚炙する所として至らないところがなかった。哭声が相い接し屍骸は野に満ちた。都尉の高禄謙・苗用秀の輩はそれでもなお人を掠めてこれを食い、しかも博索の誅斬が口にとどまるばかりであった。通過する所の官吏の残虐は一飯の費用に数十金あっても給せられないことがあり、公私は皇皇として日々皆大兵の到来を待つのみであった。博索は目に書を知らないが姦黠は有り余り、簿書政字には聞くところなくとも節度は解し談議を善くし多く人と接するに喣喣然(機嫌よく)として貨殖を好み、能く捭闔(駆け引き)して人主の心を捉え、遂に浸潤しながら将相を取るに至った。既に富貴になると汴の西城に第を興し、その規模は宮掖に擬え婢妾は百数、皆金縷の衣を着させ、奴隷の月廩も列将と等しかったが、それでもなお足りないと考えていた。上はかつて中使を遣わしてこれを責め「卿はこれに汲々としているが、まさか北帰の意はないだろうな」と述べたが、博索は結局悛らず、これによって禍に至った。
史論
- 賛に曰く、博索は本来将才ではなく恇怯にして国を誤り、ただ阿合(迎合)をもって富貴を取ることができただけである。性はまた貪鄙で、この危亡に当たってまさに封殖(私利の蓄積)を謀って自ら逸しようとした、これはなお大厦がまさに焼けようとしているのに燕雀が悟らないようなものであろうか。