金史卷一百十一 列傳第四十九 强伸

洛陽死守の壮烈

  • 強伸、本来は河中の射粮軍子弟であり、容貌は極めて陋しかったが膂力は人に過ぎた。興定初、華州副都統の安寧に従って潼関を復す功があり任使された。かつて郃陽の醋を監し、後に洛下に客居し官軍に選充されて陝の鉄嶺軍を戍したが、軍が潰えて虜われ、都尉の烏凌阿呼図に従って中京に竄り帰った。この時、中京は既に破れ留守兼行樞密院使の内族薩哈連はこれに死し、元帥の任守真は改めて府事を立て便宜をもって仲(伸)を警巡使に署した。後に守真は部曲軍を率いて行省の色埒に従って入援し鄭州の敗で守真は死んだ。天興元年(1232年)8月、中京の人が伸を推して府簽事とし所有の軍2千5百人(傷残・老幼が半分)を領させた。わずか3日で北兵がこれを囲み、東西北3面に大砲を多く樹てた。伸は衣帛を括して幟とし城上に立て、士卒を率いて赤身で戦い、壮士5千人をもって往来して救応させ、大呌して「憨子軍」を号としその声勢は万衆と異ならなかった。
  • 兵器はすでに尽き銭をもって鏃とし、大兵の一矢を得れば截って四つに分け筒鞭で発した。また遏砲を創り数人しか要さずに使え百歩の外で大石を発して当たらないものはなかった。伸は奔走して四面に応じ、至る所必ず捷ち、二駞及び乗馬を得ればいずれもこれを殺して士卒に犒い、人はわずか一啖分しか得られなくても百金の賜のように喜んだ。9月、大兵は百里外に退いたが、閏月に再び攻め兵は前より数倍となり、また一月を経てもなお抜けなかった。事が聞こえると哀宗は詔を降して褒諭し、伸を中京留守元帥左都監世襲穆昆行元帥府事とした。10月、参知政事内族色埒が南山から軍民10余万を領して洛に入り行省事とした。
  • 2年(1233年)2月、伸は洛川駅の東に一堂を建て名を「報恩」とし詔文を石に刻んで死をもって自ら効すことを願った。3月、中使が至り、伸は便宜従事とされた。この月、大兵は汴から色埒の子を東門下に駆り誘って色埒を降らせようとしたが、色埒は即座に左右に命じてこれを射させた。まもなく崔立の変を知り、病んで語れないまま死んだ。総帥の烏凌阿呼図が代わって行省事とし、伸は総帥府事を行うこと月余、糧が尽きて軍民は少しずつ散っていった。5月、大兵が再び来て洛南に陣を敷き、伸は水北に陣した。ある韓帥という者が一騎で水濱に立ち伸に降を招いたが、伸は「君は独り我が家の臣子ではないのか、一日でも勤王すればなお世に令名を遺せるのに、君は既にそれができないのにさらに我に降ることを誘おうとするのか、我は本一軍卒に過ぎないが今貴くも留守となった、誓って死をもって国に報いる」と述べて躍って彼を射た。帥は陣に奔り歩卒数百を率いて橋を奪おうとしたが、伸の軍の一旗手が独り出てこれを拒み数人を殺し、伸は自ら都統の銀符を解いてこれに佩わせ、士卒の気は再び振るった。
  • 当初、城外の四隅に戦塁を築き五門の内外には皆屏を設け「迷魂牆」と称した。大兵が500騎でこれに迫った際、伸は卒200を率いて鼓噪して出、大兵は退いた。6月、行省の呼図が衆を率いて南山に走り、鷹揚都尉が西門を献じて降った。伸は城が守れないことを知り死士数十人を率いて東門から突出し転戦して偃師に至ったが力尽きて捕らえられ、一馬に載せられ擁されつつ引かれた。伸は宛転して進もうとせず、強いて掖て将に大帥の塔察に見えさせようとし中京から七里河に至った際、伸は不遜な語を発し、兵卒は互いに「この人はこのように乖角(頑固)だ、もし大帥に会っても降ろうか、殺すべきではないか」と語り合い、好い言葉で誘って「汝が北面して一たび膝を屈すれば、我は汝の命を貸してやろう」と言ったが、伸は従わず、左右が力ずくで北面させようとしたが伸は頭を拗って南に向いた。遂に殺された。