承暉の遺託を果たした執政
- 師安石、字は子安、清州の人。本姓は尹氏、国諱を避けて改めた。承安5年(1200年)詞賦進士に及第、人となりは財を軽んじ義を尚んだ。当初、尚書省令史に補せられ、ちょうど宣宗が南遷する折、平章の完顔承暉が留まって燕都を守った。承暉は死に就こうとする際、遺衆を安石に託し行在に赴かせようとし、安石は間道を走って汴に至りこれを聞かせ、皇帝はこれを嘉した。樞密院経歴官に擢用され、時に哀宗は春宮にあって密院の事を領しており、これによって知遇を得た。元光2年(1223年)、御史中丞に累遷し、この年7月上章して備禦二事を言上した。第一に、古来国家を安んじ禍乱を息ませる所以は戦・守・避・和の四者を出ない、今の計は守和が上策である、いわゆる守とは必ず智謀の士を求め内は戍卒の心を得るに足り外は敵の鋭を挫くに足るものであり、彼が攻められないだけでなくその隙を伺って敗ることもできる、いわゆる和とは漢唐の君もかつてこの策を用いた、どうして今日のみ用いられないものか、有司に詳議させて行わせるべきであると述べた。第二に、今、敵中から帰る者が頗る多い、糧餉を豊かにしその接遇を厚くし、彼らが果たして我のために用いられるかを察し、心力ある者数十人を選んで潜かに往かせその他の帰する者を誘致すれば、彼らは必ず互いに猜貳を転じ、その後徐に起こって図れば中興の功は遠くない、と述べた。皇帝はこれを嘉納した。
- 9月、英王守純を弾劾し不実を附奏した罪により杖に処され官を追われた。哀宗即位の正大元年(1224年)、同僉樞密院事に擢用され、2年(1225年)再び御史中丞、3年(1226年)工部尚書として権左参政、4年(1227年)尚書右丞に進んだ。5年(1228年)、台諫が近侍の張文寿・張仁寿・李麟を劾した際、安石もこれを論列してやまなかったところ、皇帝は怒り甚だしく「汝はすぐ賢相を取ろうとしているようだが、朕は昏主で終わるのか」というような数百言を安石に言い含めた。安石は驟に任用を蒙りながらにわかに摧折に遭い、疽を脳に発して死んだ。皇帝は甚だこれを悼惜した。
史論
- 賛に曰く、宣宗の南遷は天命がすでに去っていた、この時、忠良の佐や謀勇の将があってもなお為し難かったであろう。しかしながら汝礪・行信は内で救い、胥鼎・侯摯は外で守禦した、これにより宣宗は亡国を免れ哀宗はさらに十年の久を保つことができた、人材の人国に益あることはこのようなものであろうか。巴古拉の養兵惜穀の論は善いものであった。安石は承暉の託に負かず遂に知遇を得たが、近侍を論列して怒りに触れ死んだ、悲しいことである。