貞祐末の十事の建言
- 劉炳、葛城の人。書を読むたびに前古の忠烈の士が国家のために策を画し万世の安を慮ったことに触れると歎息し景慕した。貞祐3年(1215年)、進士に及第しその日のうちに便宜十事を上書した。第一に「諸王を任じて社稷を鎮めるべし」として、往歳の王師が屢戦屢衂したのは承平が久しく人が兵を知らず将帥が非才で靖難の謀も殉死の節もなく持重を託しながら内心は自安を計り、驍果を自らの周りに置き疲懦を陣に臨ませ、陣勢がやや動けば塵を望んで先に奔り士卒が続いて大潰しても朝廷は詰問せずかえって兵を益す。これにより法度は日に紊れ倉庾は日に虚しくなり閭井は日に凋み土地は日に蹙む。かつて唐の天宝末、洛陽・潼関が相次いで失守した際、太子(後の粛宗)が霊武に迴趨しなければ、西行の士は剣南で老いていただろう。陛下は諸王の英明なる者を選んで天下の兵を総監させ北の重鎮に駐屯し、遠近に檄を移し軍政を戒めれば四方は風を聞いて奮い立ち死をも避けなくなる、これが折衝厭難の最善である。人情は気で激することはできても力で使うことはできない、一卒が先登すれば万夫が斉しく奮う、これが古人が身教を先んじ威令を後にした所以である、と述べた。
- 第二に「人心を結んで基本を固めるべし」として、天子が人を恵むのは施恵にあるのではなく、その同患を除くにある。今の艱危の後は恵を施しやすく、その安を欲する心に因ってこれを慰撫すれば忠誠親上の心は前日より加わるであろう。賦役を寛くし号令を信とし、事の不便なものは一切停罷し、時に重臣を遣って郡県を按行させ耆老を延見してその疾苦を問い、廉正を選び貪残を黜け貧窮を拯い孤独を恤み、労来して安んじ定めれば忠を効し義に徇う心は二志を持たない。故に「安民は与に義を行うべし、危民は与に乱を為しやすし」と言う、と述べた。
- 第三に「広く人材を収めて国用に備えるべし」、第四に「守令を選んで百姓を安んずべし」(今の郡守県令は庸暗で貪暴昏乱で姦と市を為し公には斗粟の賦、私には万銭の求めがあり、遠近が控告するところがない。今後は才器が人に過ぎ政迹が卓異な者でなければこの職に用いず、親勲故旧は望が隆く資が高くても長吏とすべきでない、賢者は殊用を喜んでますますその能を尽くし、不肖者は愧慕して自ら励むだろう)、第五に「忠義を褒めて臣節を励ますべし」(忠義の士が身を奮い命を効し力尽き城破れても屈しなかったのに、事が定まった後に有司はこれを省みず職を棄てた者が恩貸されるのに死事の者は録せられない、これでは天下は誰も畏れ憚らず殺身の無益を知って臨難に苟免することになる)、第六に「農を務め本を力めて蓄積を広げるべし」、第七に「節倹を崇めて財用を省くべし」、第八に「冗食を去って軍費を助けるべし」、第九に「軍政を修めて守戦を習うべし」(孔子曰く『民に教えずして戦わせるのはこれを棄てるという』、兵法に『器械利あらざれば卒を敵に与うるなり』とある。将不知兵は主を敵に与える、主が将を択ばぬは国を敵に与えるものだ)、第十に「城池を修めて守禦に備えるべし」(保障の国家はただ都城と付近数郡のみ、北地が守れなければこれ即ち河朔がない、黄河のみに恃むことはできない)と述べた。
- 書が奏されると宣宗はこれを異とし、再び試して「河北の城邑は何の術で保てるか、兵民雑居はどのように和すればよいか、鈔法はどのように通じさせ物価はどのように平らかにするか」と問い、炳は「守将を審択すれば城邑は固まる、兵が民を侵さなければ兵民は和する、斂散相権すれば鈔法は通じる、農を勧め賦を薄くすれば物価は平らかになる」と大略答えた。宣宗はその言を異としながらも用いることはできず、御史台令史に補すに留まった。
史論
- 論に曰く、劉炳は能く言う士と言えよう。宣宗が召試した際、対に失うところはなかったが、一台令史をもって賞するにとどめたのは、士気を倡すに足るであろうか。