河南への遷都に伴う建策
- 張翰、字は林卿、忻州秀容の人。大定28年(1188年)進士。隰州軍事判官に任じ、昆弟三人が刼を為したと誣告された事件で、翰は微行して廉察しその実状を得て州に報告し釈させた。東勝・義豐・会川令を歴任し尚書省令史に補せられ、戸部主事に除せられ監察御史に遷った。母の喪に服した後、山東路塩使に調され、父の喪に服した後起復して尚書省都事、戸部員外郎を歴任。大安間、平章政事通吉思忠・参知政事承裕が行省し翰は左右司郎中に充てられたが論議が相叶わず処置乖方であったため翰はしばしば争ったが省みられなかった。承裕が逮捕された際、衛紹王は翰にかつて発言があったことを知り召見し撫慰した。
- 知登聞鼓院兼前職に改め、侍御史に遷った。貞祐初、翰林直学士として元帥府経歴官に充てられ、中都戒厳で調度が方に殷わしい中、戸部侍郎に改めた。宣宗が汴に遷った際、翰は扈従の糧草を規措し真定に至り上書して五事を述べた。一に強本、すなわち兵を裒め豪民を徙して南京を実するべきこと、二に足用、すなわち蔡汴の旧渠を按じて漕運を通ずるべきこと、三に防乱、すなわち義軍を就集させ官印を仮して統摂させ反側を安んずべきこと、四に省事、すなわち自立できない県邑を稍併して官を省き備盗を易くすべきこと、五に推恩、すなわち天子の在所を推恩し民に幸いを示すべきこと、であった。皇帝はこれをほぼ施行した。
- 翰は治剧の才があり、至る所で処置が的確であった。河平軍節度使、都水監提控軍馬使に遷り、まもなく戸部尚書に改められた。初めて南京に至った時は庶事が草略であったが、翰の経度区処によりいずれも条理が整った。この歳卒し、諡は達義。