南遷後の職務中の死
- 任天寵、字は清叔、曹州定陶の人。明昌2年(1191年)進士。考城主簿に調され、威戎県令に再遷した。この県はもと堡塞で文廟・学舎がなく、天寵は廃署を建てた。兄弟が田を巡り訴訟した際、天寵は理義を諭し委曲周至であったため皆感泣して去った。泰定軍節度判官に調され、父の喪に服した後、崇義軍節度判官に調され、尚書省令史に補せられ、右三部検法司正に遷り、監察御史に転じた。右司都事に改め、員外郎に遷り、左司諫に改め左司郎中に転じ、国子祭酒に遷った。
- 貞祐初、秘書監兼吏部侍郎に転じ、中都路都転運使に改めた。京師戒厳中、糧運が艱阻であったが天寵は全力で営辦し、家貲を出して飢者を済い全活せしめた者が甚だ多かった。監察御史の高夔・劉元規は天寵を公勤明敏で材幹あり百姓を安集できる者として20人の中に挙げ、戸部尚書に遷った。3年(1215年)、中都が守れなくなると天寵は継いで南京に走ったが、道中で兵に遇い死んだ。諡は純粛。
史論
- 賛に曰く、程宷・任熊祥は遼の進士であり、孔璠・范拱は宋・斉に仕えていたが金に至り、皆礼遇された。金の文治は日にますます盛んであった。張用直父子は共に旧学に列し、劉樞の練達、王翛の疆敏なる事務ぶり、楊伯雄の善き諷諫と工なる辞藻、蕭貢・温特赫提克徳の文芸は、時に適う数人であり、正隆・大定・明昌の間に相次いで用いられた。張翰・任天寵の経理調度は、宣宗の南遷の際になおその用に頼った。金源氏百余年、人材を培植しその効を獲た所以は、これらに於いて概ね見ることができる。