文才と河朔守禦
- 蕭貢、字は貞卿、京兆咸陽の人。大定22年(1182年)進士。鎮戎州判官・涇陽令・涇州観察判官を歴任し、尚書省令史に補せられた。旧例では試補二月にして初めて補用されるが、貢は数日にして執政に能ありとされ即座に用いられた。監察御史・提刑司に擢用され、涇州の美政を奏し、北京転運副使に遷り、親が老いたため帰養した。左丞董師中・右丞楊伯通がその文学を薦め、翰林修撰に除せられた。
- 上書して近年の弊、すなわち人材登用が器識・操履によらず牘按の巧拙を重んじ、工用の人が才によらず資叙にのみ拘泥し名器を慎重に与えず僥倖が多く、守令が才実によらず民がその害を被っている点を論じ、真才を擢し澆俗を振うべきと述べた。詔で詞臣に「唐の董重質を用いて郭誼を誅した得失」の論を作らせた際、貢は第一とされ重幣四端を賜った。貢はまた時政の五弊・言路の四難を論じ、詞意は切至であった。治書侍御史に改め、父の喪に服した後起復して右司員外郎に改め郎中に転じ、国子祭酒兼太常少卿に遷り、陳大任と共に遼史を刊修した。刑部侍郎に改め、同知大興府事・徳州防禦使を歴任、三遷して河東北路按察転運使となった。
- 大安末、彰徳軍節度使に改められたが、兵興に城を守れず百姓を亡失した罪により同知通遠軍節度事に降された。まもなく静難軍節度使に改め、河東北路・南京路転運使、御史中丞、戸部尚書を歴任した。南京戒厳の際、軍儲の乏しさの罪に問われたが詔で釈された。興定元年(1217年)致仕、元光2年(1223年)卒した。諡は文簡。貢は好学で老いるまで読書を怠らず、史記の注百巻を著した。