海陵に諫めた諮問応対
- 楊伯雄、字は希雲、真定藁城の人。8代祖の彦稠は後唐の清泰中、定州兵馬使となり、後に晋主に従い北還し臨潢に居した。父の邱行は太子左衛率府率であった。伯雄は皇統2年(1142年)進士に及第。海陵が中京を留守した時、邱行はその幕府にあり伯雄が来省すると、海陵はこれを見て深く器重した。韓州軍事判官に調され、賈販を詐称し逆旅主人を欺いた盗二人が刼奪を図って訴え出たのを、伯雄はその詐を見破って糾問し十余人の党を得て一郡はこれに驚服した。
- 応奉翰林文字に遷り、海陵が執政の際、旧知として伯雄をしばしば自邸に来させたが、伯雄は諾しつつ行かなかった。海陵が怪しんで問うと伯雄は「君子は人に知られるに礼をもってすべきで、附麗奔走は素志ではない」と答え、これにより海陵はますます厚遇した。海陵が簒立して数月、伯雄は右補闕に遷り修起居注に改められた。海陵は治を求めるに鋭く議論は夜分に及んだ。「人君が天下を治めるにその道は何を貴ぶか」と問うと、伯雄は「静を貴ぶ」と答え、海陵は黙した。翌日「朕が諸部の明安を分屯し辺戍させたのは前夜の対応で言った静に反するのではないか」と問うと、「兵を徙して分屯させ南北を相維持させるのは長策である、いわゆる静とは擾さないことを言うのだ」と答えた。乙夜に鬼神の事を問われた時、伯雄は「漢の文帝は賈生を召見し夜半に前席したが百姓を問わず鬼神を問うたことは後世に譏られた。陛下は臣の愚陋を厭わず天下の大計を及ぼされるが、鬼神の事は学んでいない」と答えたが、海陵は「ただ永夜の倦思を釈すためだけだ」と言い、伯雄はやむを得ず「臣の家にある一巻の書には、人が死んで生き返り冥官が罪を免れる問いに『日中の行いを記す帳簿を置き、暮夜にそれを書け、書けないことは為すべきでない』と答えたとある」と述べ、海陵は容を改めた。
- 夏日、海陵が瑞雲楼に登り納涼した際、伯雄に詩を賦させ、その末章に「六月不知蒸熱到、清涼会与万方同」と詠み、海陵は忻然として左右に示し「伯雄は言に出ずるも規戒を忘れない、人臣たるものはかくあるべきだ」と述べた。兵部員外郎に再遷し、父の喪に服した後、起復して翰林待制兼修起居注、直学士、右諫議大夫兼注作郎修起居注を歴任。皇子舒蘇鄂博が薨じた際、伯雄は同直の者と竊議したとして責を受けた(海陵諸子伝に詳しい)。海陵が江南征伐を議した際、伯雄は「晋の武帝が呉を平らげたのも皆将帥に命じたのであり、何ぞ親総の労を煩わすのか」と奏したが聞かれず、起居注から落とされ召見されなくなった。
- 大定初、大興少尹に除せられ、母の喪に服した際、顕宗が皇太子となり東宮官属を選ぶにあたり張浩が伯雄を薦め起復して少詹事とし、兄の子の蟠を左賛善とした。言うことは聴かれ諫めは従われ時論はこれを榮とした。古の太子の賢不肖を集めた書を号して「瑶山往鑑」とし進献した。羽猟・保成等の箴を進めるといずれも嘉納された。再び左諫議大夫翰林直学士となり、太子詹事の欠員に際し宰相が再び伯雄を挙げると、皇帝は「伯雄を朕の左右から去らせるわけにはいかないが、東宮もまた輔導が必要だ」と述べ、太子詹事兼諫議とした。6年(1170年)、皇帝が西京に幸し涼陘に避暑しようとした際、伯雄は諸諫官を率いて入諫し「朕は徐に思う」と言われても諫めを止めず、同列は皆引退したが伯雄は久しくして起った。この年、涼陘に至り徼巡すると果たして虞れがあり、皇帝は伯雄の言を思い出した。
- 還御の後、礼部尚書に遷り、皇帝は近臣に「群臣に幹局のある者は多いが、伯雄の忠実には及ばない」と語った。皇帝が伯雄に「龍逄・比干は皆忠諫をもって死んだが、明君に遇っていればそのようなことはなかったのではないか」と述べると、伯雄は「魏徴は良臣たらんと願った、まさに明君に遇ったことを言うのです」と答え、宰臣を顧みて「書に『汝、面従することなかれ、退きて後言あることなかれ』とある。朕は卿らと共に天下を治める以上、事あればまさに面陳すべきだ。卿らは卿相の位に致り、正しく道を行い名を揚げる時に偸安自便し僥倖一時であれば、後世に対しどうするのか」と言い、群臣は皆万歳を称した。12年(1172年)、沁南軍節度使に改め、翰林学士承旨に召された。丞相の石琚が致仕する際「誰が卿に代われるか」と問われ、琚は「伯雄が可なり」と答え、時論はその挙が人を得たとした。再び詹事を権知し、伯雄は知るところは言わずおらず匡救すること広く多かった。後宮の僚に詭随する者があれば人は必ず「楊詹事」と称してこれを恥じさせたという。
- 定武軍節度使に除せられ、平陽尹に転じた。かつて張浩が平陽を治め恵政があったが、伯雄がその尹となった後、百姓は「前に張あり後に楊あり」と称した。河中尹に徙り卒した。享年65、諡は荘献。弟に伯傑・伯仁、族兄に伯淵がいる。
- 伯淵、字は宗之。父の邱文は遼の中書舎人であった。伯淵は早くに孤となり母に孝を尽くし、財を疎んじ施しを好み、古書を収集することを喜んだ。天会初、名家子として尚書省令史に補せられ、14年(1136年)進士を賜り、吏礼二部主事・御前承応文字を歴任。秩満で同知永定軍節度使事に除せられ、司計郎中に召され、知平定軍事となり廉をもって遷り、平州路転運使、知泰安軍事として恵政があり百姓は石に刻んでその事を記した。四遷して山東東路転運使となり、正隆末、群盗が蜂起し州郡がしばしば害を被る中、独り済南は伯淵に頼って保全された。大定3年(1163年)致仕し、家にて卒した。