剛直な地方官
- 王翛、字は翛然、涿州の人。皇統2年(1142年)進士に及第し、尚書省令史から同知霸州事に任じ、刑部員外郎に累遷したが、故人の姦事を請嘱した罪で杖四十に処され泰定軍節度副使に降授された。四遷して大興府治中となり戸部侍郎を授けられた。世宗は宰臣に「王翛は前に外官として剛直の名を聞いたが、今は専ら出罪を陰徳の事とし多くが理に非ず軽きに従い、また巧倖偸安していると聞く。もし果たして剛直ならば身を忘れて国のために行い正を履んで偏することなくすべきであるのに、なぜ法を売って福を徼めるのか」と述べた。密雲等36県の明安人戸への賑済を命じられた際、粟3万余石を冒請したとして尚書省は奏して官一階を奪い、同知北京留守事に外任させた。皇帝は「人はよく王翛を能官と言うが、朕が観るに凡事に力を尽くさず一に老姦のみ」と述べた。
- 24年(1184年)、遼東路転運使に遷り、歳余で顕徳軍節度使に改められた。前任の転運使が倉使王祺を拽辱して死に致した罪で両官を追い解職させられ、勅杖七十で鄭州防禦使に降された。章宗即位後、同知大興府事に擢用され、審録官は翛が前任の顕徳で潔廉剛直、軍吏が斂跡し訟獄がなかったと奏し、礼部尚書兼大理卿に遷り、宋への使者として往復した。太師広平郡王図克坦貞貞(章宗の母孝懿皇后の父)を改葬する際、皇帝は前代故事に倣い班剣・鼓吹・羽葆等の儀衛を用いようとしたが、宰臣は貞が煕宗弑逆に誅死した人物であるため難色を示し、詔で礼官に議させたところ、翛は「晋の丞相王導の葬に前後の羽葆・鼓吹・武賁班剣百人が給された、唐以来の大駕の鹵簿には班剣があるが、王公以下の鹵簿には班剣も羽葆もなく、臣下の宜しく用いるところではない。国朝の大臣の葬にもこれはない」と述べたが、皇帝は先に唐の大臣李靖等の葬に班剣・羽葆が用いられたことを知っており、「典故に無いとはいえ用いてもよい、一日のことに過ぎない」と怒った。ある日、翛と諫議大夫兼礼部侍郎の張暐は殿門に召され「朝廷の事は汝ら諫官・礼官が弁析すべきであり、小民の言でさえ採るのに卿らはなおさらだ、今後は議事において尚書省に附合するばかりであってはならない」と諭された。
- 明昌2年(1191年)、知大興府事に改められた。当時、僧徒が貴戚の門に游ぶことが多く、翛はこれを悪み僧が午後に寺を出ることを禁じた。ある僧がこの禁を犯し、皇姑大長公主がその赦免を請うたが、翛は「上命を奉じている以上」と言って即座に出させ、僧を杖百に処し死に至らしめた。京師は粛然となったが、後に出人罪を故意にした咎で官を削られ解職された。翌年、特に定海軍節度使を授けられ、「卿の性は太剛であり率意に行事した結果、自ら刑に陥った。もし年を殿らせて叙降されるべきところ、卿の入仕が久しく執持するところがあったため、特に罪謫の中より起用し見職を授ける。かの地は歳歉で民は飢え盗賊が多いため旧人を用いて鎮撫する必要があり、勉めて心を尽くし後効を図られよ」との論旨があった。ほどなく致仕を乞うたが皇帝は「翛は幹能ある者で得る力が多い」として許さず、再び申請すると従われた。泰和7年(1207年)卒した。享年75。性は剛厳で事に臨んで果決、吏民はその威を憚り豪右も敢えて犯さなかった。承安間、大興府事に欠員が生じた際、皇帝は宰臣に「王翛の輩のような極めて風力ある者を選んで用いよ」と詔したことから、皇帝の信任のほどが知れる。