刑獄と燕京造営
- 劉樞、字は居中、通州三河の人。若くして良家子として従軍し河間に屯し、同輩は皆騎射に長じたが樞は独り経史を刻意した。天眷2年(1139年)進士に及第し唐山主簿に調され、飛狐令、蔚州刺史に転じた。蔚州刺史は功を恃んで貪汚し憚るところがなかったため、属邑は皆これを厭苦していたが、樞は一切従わず、他事にかこつけて訴獄させ死に致そうとしたところ、樞に同情する郡人が樞を脱走させ朝廷に訴え出たため、廉察使が至ると太守・副官以下は皆罪に問われ廃されたが、樞のみ治状が優等であったため昇進し、奉直大夫となった。
- 張浩が燕京宮室を営建する際、樞が選ばれて工役を治め、尚書刑部員外郎に遷り、太原尹図克坦額哷楚克の反状を鞫治し旬日で獄が成った。工部郎中に転じ本部侍郎に進んだ。正隆末、従軍から江上より還り、大定初、左司郎中の王蔚、右司員外郎の王全と共に外に補せられた。樞は南京路転運使に任じ、当初、世宗が樞らを再用しようとした際、御史台は樞らが正隆時に巧進で法を敗り政を蠹したと奏し人々に怨嫉されていたが、皇帝は樞らの幹済を用い、「心を改め過ちを悛るならば必ず昇擢するが、そうでなければお前らを斥ける」と戒めた。この時、珠勒根彦忠が南京都転運使であったが吏事に不慣れであったため樞を用いて補佐させた。山東路転運使、中都路転運使に転じ、大定4年(1164年)官にて卒した。