金史卷一百四 列傳第四十二 富察伊埒圖

専横と誅殺

  • 富察伊埒図、東京明安の人。父の烏登は太子太傅致仕。伊埒図は勇健で力があり、護衛十人長に充てられ、同知泰州防禦使事兼武衛軍鈐轄に調され、憂により去官し起復して武器署令となり、従軍中に兵が潰えて捕らえられた。貞祐2年(1214年)、降兵万余人と共に脱出して帰り、隆安府治中に遷り銀百両・重幣六端を賜った。遥授信州刺史として功があり、扶餘路節度使兼同知上京留守事に遷り三階進み、知隆安府事を改め、逾年で遼東上京等路宣撫使兼左副元帥に充てられ、さらに二月後には尚書右丞を拝命した。
  • 伊埒図は上京行省富察烏錦と権を争い、隆安の戦馬を売り、擅に銀牌を造り、睚眦で人を殺した。さらに宣召を矯称して隆安を棄てて京に赴いたが、宣宗はいずれも釈して問わなかった。知河南府事に改め、元帥左監軍を権知し左副元帥を権知し、陝西行省参議官に充てられ、間もなく陝西路統軍使を兼ねた。興定2年(1218年)4月、簽樞密院事に改め権右副元帥として鄧州で行樞密院。御史台は伊埒図が軍中で沙を買って道を覆い官銀を盗用し、矯制して禁書を収め、鑾輿を指斥し、親軍に守門・護衛・押宿を命じ、前後の衛仗・婢妾を内人の粧飾に倣わせた等の数事を奏し、詔で吏部尚書阿布哈希卜蘇にこれを鞫させ、この罪により誅された。

史論

  • 賛に曰く、金史を読み張行信が鄂屯忠孝の事を論じて「ああ、宣宗の有為でないことはかくの如きか。大臣の進退にどうして道がないことがあろうか。その親知に語り求去を諷させたのは、はたして礼であろうか」と述べたのに至り、それゆえ鄂屯忠孝・富察思忠の党類は、赫舍哩呼実黙の疲衆、完顔㝢の軽信誤国、沃哷哈達の上官を詆訟したことに比べても、朝廷はかつてこれを罪とせず、政刑を失した。これはあたかも小懲大誡の道と言えようか。