金史卷一百五 列傳第四十三 程宷

太祖朝の諫言

  • 程宷、字は公弼、燕の析津の人。祖父の冀は遼の東徳軍節度使で、冀の6人の男子は皆科第に登り、士族はその家を「程一挙」と号した。冀の次子四穆は遼の崇義軍節度使で、宷は四穆の末子である。幼くして成人の如く篤学、進士甲科に及第し殿中丞に累遷した。天輔7年(1123年)、太祖が燕に入ると尚書都官員外郎・錦州安昌令に任じ、従軍の功により少府少監を加えた。熙宗の時、翰林待制兼右諫議大夫を歴任した。
  • 宷は上疏し、殿前点検司の禁籞粛正・天子を不虞に備える任を挙げ、陛下が校猟に際して羽衛の従臣が貴賎を問わず弓矢を執って馳逐し、聖駕が沙礫の地を崎嶇し林木叢鬱で迷失しかけたこと(朝から夕方まで百官が皇帝の所在を知らなかった事件)を諫め、古の天子の畋猟の警蹕の礼を引いて陛下も熟計すべきと述べた。また、追尊の諡号に関して、唐や前宋・遼の例で18字・16字まで加えられたのに対し、太祖武元皇帝はいまだ武元の2字のみであり、功徳の盛大さに比して不足であるとして、有司に諡号を改議させるべきと述べた。
  • また巡狩の意義を説き、国家肇興による郡国新民の旧習・不明の獄・僭濫の刑・力役無時・四民失業を正すべく巡狩の実を行うべきと述べ、さらに「善医は他人の肥瘠を見ず脈の病を察するのみ、善く天下を計る者は天下の安危を見ず紀綱の理否を察するのみ」と論じ、尚書省に紀綱を立てさせるべきと述べた。また後宮の選や宮禁の制の厳密化についても言上した。皇帝はこれらの疏奏を嘉納し、太祖の尊諡が議贈された。皇統8年(1148年)12月、翰林侍講学士から横海軍節度使に任じ、彰徳軍節度使に移り、官にあって卒した。享年62。宷は剛直耿介で権貴に諂わず、古の君子の風があったという。