招賢の弊
- 完顔㝢、本名恩楚、西南路明安の人。大定28年(1188年)進士。河東北路提刑司知事、同知遼州軍州事を歴任し、国史院編修官に召され、応奉翰林文字・南京路転運副使に遷った。父の喪に服した後、起復して太府監丞、吏部員外郎に転じ、大安初、知登聞検院に任じ、右司郎中・翰林待制兼侍御史に累遷した。
- 貞祐初、衛紹王の事を議した(衛紹王紀に詳しい)。中都包囲が急を告げた際、東華門に招賢所を置き、内外の士庶が意見を述べられるようにした詔があり、これにより閭閻の細民がしばしば衒鬻して求売した。王守信という村夫は大言を為し諸葛亮も兵を知らぬと言った者を、㝢は朝に薦め、詔で行軍都統に署させたところ、市井の無頼を募って兵とし教閲進退が跳擲で童戯の如く、陣法は「古今相対」の四字を旗に大書し黄布袍緇巾鑞牌各36事・牛頭響環64枚をもって敵を怖れさせ走らせようとしたが、大率誕妄であり、その衆と城を出て百姓の樵採者を殺して功とした。
- 賈耐兒という者は本来岐路の小説人で俚語詼嘲をもって衣食を得ていたが、糧車千両を製造させたところ材木が極めて貴重で費用は浩大となり、観者は皆竊笑した。草澤の李棟は衛紹王の時、司天監李天惠に事え天文を依附し占卜を仮托して貴臣に趨走していたが、司天官となり「気は紫微を貫き京師の兵乱を主る、幸いに貫徹していないので禍が成らない」と密奏したが、その後高琪が呼沙呼を殺すと宣宗はますますこれを信じた。左諫議大夫張行信は「狂子庸流が濫りに抜擢され機務に参預するのは無意味だ、司天の官は天象を占い経に拠って陳奏すべきで、人主が己を飭し政を修め禍を福に転ずべきだ、諸監官に公同で陳奏させ見解が異なれば各々状で聞かせるべきで偏聴すべきでない」と奏し、宣宗は行信と㝢を召して守信の事を面訂させ、また近侍と共に高琪に決を求めたところ、高琪は守信を用いるべきでないと述べ、宣宗はようやく行信の言を然りとした。
- ほどなく㝢は礼部侍郎に遷り、東京副留守・隴州防禦使を改め、安化軍節度使兼山東路統軍副使に遷った。興定元年(1217年)4月、詔で㝢は本官のまま元帥左都監を権知し行元帥府事として、苖道潤・伊喇特爾格の軍事を和輯した(道潤伝に詳しい)。12月、密州が破れ、㝢は乱軍に殺された。