金史卷一百四 列傳第四十二 富察思忠

配享論と衛紹王廃立

  • 富察思忠、本名烏延、隆安路海蘭烏珠明安の人。大定25年(1185年)進士に及第。文徳漷陰主簿、国子助教、応奉翰林文字、太学博士を歴任し涿州刺史・吏部郎中に累遷、潞王傅に遷った。翰林侍読学士張行簡と共に武成王廟の配享を論じるよう詔され、思忠は「武成王廟の配享諸将は世代の先後によっていない。唐の祀典では李靖・李勣が呉起・楽毅の上に置かれた。聖朝は太祖が二千の衆で百万の師を破り、太宗は宋を克してこの帝業を成した。秦王宗翰・宋王宗望・羅索古新らと前代の将を各々功徳の間で列すべきだ」と奏した。思忠の論は矯飾が多く、理あるものだけを録したという。
  • 大理卿兼左司諫同修国史に遷った。泰和6年(1206年)、平章政事布薩揆が河南を宣撫する際、備禦攻守の法を集めて百官に尚書省で議させたが異論が多かった中、思忠は「宋人が城邑を攻囲するのに時に数千と至るのは小寇とせず、賢将を選んで攻守を宜しきに応じ臨時に制変すべき」と述べ、宣宗はこれを是とした。翰林侍講学士兼左諫議大夫、大理卿同修国史はそのままとし、さらに知審官院を兼ね、正職の外に四職を兼ねたのは思忠に始まる。宋人が講和を請うと銀50両・重綵十端を賜り、母の喪に服した後、起復して侍講学士兼諫議・修史・知審官院を歴任、侍読兼兵部侍郎に転じた。
  • 貞祐初、呼沙呼が衛紹王を廃し庶人とすることを請うた際、思忠は鄂屯忠孝と共に呼沙呼に阿附し「人の財を窃むもなお盗と謂う、まして大位を私するをや」と述べたが、宣宗は従わなかった。太子太保兼侍読修国史に遷り、2年(1214年)春、太廟で祭享した際に思忠は太尉を摂して酔って礼直官を殴打し、御史台に劾奏され秘書監兼同修国史に降格。まもなく翰林学士同修国史に遷って卒した。