治績と冤獄の裁き
- 孟奎、字は元秀、遼陽の人。大定21年(1181年)進士。黎陽主簿を歴任し母の喪に服した後、淄州軍事判官、汲県令を歴任。尚書省令史に補せられ、参知政事馬琪に従い澶淵の決河を塞いだ。中都左警巡使に転じ、平章政事完顔守貞は士大夫を礼遇し、その門に出入りする者は「冷巌十俊」と号され、奎もその一人であった。都転運司度支判官・上京等路提刑判官に遷った。遼東の契丹判額哩貝が驛使を殺した際、同名の契丹人が誤って捕らえられたが、奎は囚人を糾して真犯人を釈放し、後にその真の殺人者を捕らえた。
- 同知西京路転運使事、行樞密院を鎮寧に置いて宣差規措所官として軍用を給し、河東南北路按察司事・武州刺史に転じた。三事を上言し、その一は「親民の任である吏部の選は今、武夫を計資して用いる傾向にあり、権は胥吏に帰す。各県は土人を参用して紀綱を立てるべきだ」というものであった。曹州刺史・同知中都路都転運使事を歴任。旱で中都路の冤獄を審録した際、多くを平反した。大安初、博州防禦使に任じ、州に赴く属県の民が逆旅に泊まらぬよう定め吏姦を防いだ。山東東西路安撫副使・北京臨潢等路按察転運使に遷り、行六部侍郎で監軍完顔恩楚の虚造功状を弾劾し、恩楚は免官となった。宣差都提控に任じられ、貞祐初、疾により卒し、諡は荘粛。