治水と忠死
- 高霖、字は子約、東平の人。大定25年(1185年)進士。符離主簿・泗水令・安国軍節度判官を歴任し、父の喪に服した後、生徒数百人を教授した。国史院編修官に召され、黄河の患は河流の曲折による隘狭にあると論じ、雞爪河を開いて水勢を殺げば数埽の労を免れられると建言し、朝廷はこれに従った。応奉翰林文字・監察御史・太常博士・都水監丞・陝西路按察司事などを歴任。南征の際、調発が繁急で民が滞留し有司が軍期失誤の罪に問われたことを、霖はその冤を訴え出た。都水少監、大安初に耀州刺史、河北東路按察副使、韓王傅兼翰林直学士、工部侍郎兼直学士を歴任。至寧元年(1213年)8月、宣宗を新城に迎える際、諸妃を南に迎えることを命じられ、銭千貫と官三階を賜った。貞祐2年(1214年)、河平軍節度使兼都水監に任じ、宜村を城として衛州とすることを請い、これが採用された。兵部尚書知大興府事に入り、参知政事に権知し、右丞相承暉と共に中都で行省した。中都留守兼本路兵馬都総管平章政事に転じた。
- 穆延盡忠が中都を棄て南奔した際、霖は子の義傑と共に夜に出たが進めず、義傑に「お前は生きよ、私はここで死ぬ」と告げ、霖は死し、義傑は屍の中に伏して免れた。翰林学士承旨を追贈され、郷里に碑を立て歳時に祭祀し、子孫を訪ねて録用され、諡は文簡。