金史卷一百四 列傳第四十二 鄒谷

吏才と諍い

  • 鄒谷、字は応仲、密州諸城の人。大定13年(1173年)進士に及第し、瀋王府文学などを歴任。尚書省が大理司直に推挙した際、皇帝は「司直の争論・情法の折正は疑難であり、谷の得意とするところではない」と述べたが、宰臣は「谷には吏才がある」と述べ、陝西・河南での訪察と定課で称職を得たため、同知曹州軍州事に任じられた。刑部主事、北京臨潢提刑判官、大理寺丞を歴任した際、尚書省が宋国使の接送伴の官を差点した令史・周昻の数員申請を、左司都事の李炳が酔って怒り杖罰にしようとした事件が起こり、谷は「口舉両人は一時の言であり杖贖にすべき、攬昻衣にて杖を加えようとしたのは杖三十とすべき」と議し、皇帝は李炳の過ちを認め谷の議に従った。その後、済南・彰徳府治中、吏部郎中、河東按察副使、沂州防禦使、定海・泰寧軍節度使を歴任し、泰和6年(1206年)致仕。貞祐初に卒した。