金史卷一百四 列傳第四十二 納塔謀嘉

経歴と諫言

  • 納塔謀嘉は上京路音徳爾明安の人。若くして策論を学び、進士に及第。大定26年(1186年)、東宮に選ばれ鄆王琮・瀛王瓌に読書を教えた。終場挙人試に補せられ上京提刑司書史となり、廉能で知られた。承安初、契丹の図卜蘇徳壽が韓州・信州を寇掠し、提刑司が書史の誰を奏者に立てるか諸書史に問うと、皆難色を示す中、謀嘉は自ら行くことを願い出た。大定5年(1165年)、同進士出身を賜り、東京教授・湯池主簿・太学助教・翰林修撰兼修起居注・監察御史などを歴任。貞祐初、吏部員外郎・翰林待制・侍御史に遷った。
  • 完顔㝢は謀嘉の才行を推挙し、元帥府経歴官に充てた。中都が包囲され食糧が尽きかけた際、胥鼎が奏して京師の官民で貧民を賑救した者に官を先与すると定めたが、謀嘉は自らの家は受けずと辞退した。中都が危急に陥ると謀嘉は「帥臣が数万の衆を統べながら一戦もできず、自ら縛られて降を請うのか」と述べた。
  • 宣宗が遷都を議した際、謀嘉は「河南は地が狭く土が薄く、後日には宋・夏の侵攻を受け河北も我が有ではなくなる。諸王を選んで遼東・河南に分鎮させるべきで、中都を去ってはならない」と諫めたが聞かれなかった。その後、唐州刺史、太常少卿兼左拾遺、鄭州防禦使、左諭徳、少詹事などを歴任。興定元年(1217年)、潼関失守により河南統軍使兼昌武軍節度使に遷り、行院を許州に置いた際、冗食の軍士2千余人を淘汰し、宋討伐に反対する上書をしたが聞かれなかった。3年(1219年)、潁州防禦使に降格。宋軍が潁州襲撃を図るとの情報に備えて撃退し、告げなかった者にも功を認めて賞するよう願い出た。4年(1220年)、翰林侍講学士兼兵部侍郎同修国史に召され、5年(1221年)に卒した。