金史卷一百一 列傳第三十九 承暉

段階

  • 字は維明、学を好み経史に淹貫、父益都尹の職を襲う。大定十五年(1175年)符宝祗候から近侍局直長、章宗が皇太孫の時代に侍正に選ばれた。孝懿皇后の妹婿烏頁爾の召還を巡り、世宗の罪を理由に詔を奉じなかった見識が評価された。兵部侍郎兼右補闕、九路提刑司の東京咸平等路提刑副使から北京留守副留守などを歴任、私事以外は言葉を交わさぬ清廉さで知られた。
  • 刑部尚書兼知審官院として、平章鎰の甥にあたる裕爾罕都都の不当な超授人事を諫めて是正させた。大興府知事として、宦者李新喜の妓楽借用要求を拒絶し章宗に評価された。訴訟における元妃兄李仁惠の圧力にも屈せず杖罰を実施。伐宋時、山東路統軍使として盗賊対応の緩和策を提言。
  • 泰山の林木伐採(盗賊隠匿対策)に対し「泰山は五岳の宗、赭してはならぬ」と反対し中止させた。限銭法への疏諫(「財が上に聚まり怨みが下に結ぶ」)は容れられなかった。衞紹王即位後、御史大夫、参知政事に至り、駙馬図克坦黙哷父子の姦利を面質で正した。尚書左丞として宣徳行省、承裕の会河堡敗績で除名。
  • 至寧元年(1213年)横海軍節度使に復帰、貞祐初め尚書右丞として即日入朝、妻子は滄州で戦死。赫舎哩執中誅殺後、平章政事兼都元帥・鄒国公。中都包囲時、宣宗の南遷に伴い右丞相兼都元帥・定国公として皇太子と共に中都留守を務めた。穆延盡忠に兵事を委ね自らは大綱を統括、中都死守を期した。
  • 富察斉錦の投降で中都危急を報告する上奏(「一失中都、遼東河朔皆非我有」)、援軍要請を続けたが実際の救援は届かず、諸将(永錫・慶夀ら)の軍も潰滅。高琪の妨害もあり、承暉は盡忠との死守の約束が反故にされたことを知り、盡忠の腹心実庫を先に斬った上で仰薬自殺した(貞祐三年五月)。妻子を滄州で失ったこと、遺表で高琪の姦を弾劾する内容を残し、家財を家人に分与、辞世の書に誤字を書いた自らを嘆いた逸話がある。師安石が遺表を携え行在に赴き、宣宗は相国寺で哭悼、開府儀同三司太尉尚書令廣平郡王、諡忠肅を贈られた。司馬光・蘇軾の肖像を書室に置き「吾師は司馬にして友は蘇公」と語った清廉な人柄で、完顔守貞と忘年の交わりがあった。