段階
- 字は仲修、榮州河津の人。十八歳で進士登第、臨晋主簿として馬の盗難事件を機知で解決した逸話(刀に血の匂いを付ける計)がある。南和令として牛耳切断事件も同様の機知で解決。臨洮府判官、解鹽副使などを歴任、貞祐間左司員外郎から翰林直学士、興定三年(1219年)宋伐征討軍の帰還を進言し実現。
- 陳留県令程震ら二十九人の農桑功績を挙げて推挙、興定三年設置の京東・西・南三路行三司の西路(治中京)を担当。農具の武器転用への反対、陽武の鹽売官設置の批判(塩流通の整理を提言)を行い、兵部・吏部尚書を経て権参知政事、四年(1220年)参知政事兼修国史。
- 宣慰使として河南水害地を巡察、宣撫司官吏の州府官との会飲禁止、養馬役の弊害是正、河南閑田の招民耕種策、南陽の稲作豊作を活用した唐鄧軍食調達策を上奏した。会計の才に優れ能吏と称されたが執政後は矜持が過ぎ声望が低下、興定五年(1221年)進士試の不正監督事件で降格、安国軍節度使に転じ、元光元年(1222年)十一月城陥落時に自殺、享年四十六、資徳大夫知河中府事を追贈された。
史論
- 大凡兵興れば財用が不足するため、張煒・李復亨は時に乗じて利を射て聚歛を功とした。大安の軍士は張煒を倒戈して殺そうとし、李復亨は南陽宣慰で稲熟を報告し糴入を図った――いわゆる聚歛の臣とはこの二人を指すのであろう。髙竑の守蔵は君子の資質を頗る示している。